基調講演「横浜開港と生糸貿易」
シルク博物館 博物館部長 小泉勝夫
進行(関川):皆様、こんにちは。ただいまご紹介いただきました事務局の関川と申します。ただいまから、途中20分間の休憩をはさみまして、17時50分までシルク・サミットの第1日目の講演等を行いたいと思います。
私は、シルクにつきましては全くの素人ですので、言葉等十分に意を尽くさないところがあるとは思いますけれども、皆様の温かいご協力をいただきまして、最後までサミットを充実させていきたいと思っております。どうぞよろしくお願いいたします。
また、本日は演題、講師等につきましては資料の通りです。大変時間が厳しい状況ですので、講師等のプロフィールにつきましては、できるだけ割愛させていただきます。時間を有効に使いたいために、大変僭越ですが、講師の皆様には最後の5分間ぐらいでおまとめいただきます。全国から集まっておりますので、質疑などは17時30分ぐらいから20〜30分間を取りまして、できましたら意見交換をしてシルク・サミットを盛り上げたいと思っております。どうぞご協力をいただきたいと思います。終わりの5分前になりましたら、これをたたかせていただきます。講師の皆様にはどうぞ十分意を尽くしていただいて、よろしくお願いしたいと思います。
それでは、開港に至る経過と生糸貿易の始まり、玉石混交の生糸輸出が招きました悪評と輸出の停滞、生糸商人の没落と生き残りなど、生糸貿易のさまざまな歴史的出来事につきまして、「横浜開港と生糸貿易」ということで、シルク博物館博物館部長の小泉様に講演をお願いしたいと思います。どうぞよろしくお願いします。(拍手)
小泉勝夫シルク博物館博物館部長:ただいまご紹介いただきました小泉です。実は蚕糸業史については、岡谷の市立岡谷蚕糸博物館の嶋崎先生を初め、こうやってお顔を拝見すると、それぞれ絹の歴史については大家の方が何人かお見えになっています。大権威者を前にして、私がこのようなお話を申し上げるのは大変失礼かとは存じますが、お許しをいただきまして、しばらくの間、横浜開港と生糸貿易についてお話を申し上げたいと思います。
本来なら、何回かに分けて細かくお話しすれば理解していただける内容だろうと思うのですが、遠くから見えた方もいるということで、短時間の中で、開港から現代へお話をしたいと思います。80枚近いスライドを用意しましたが、1枚1分で話しても80分かかってしまうので、規定の時間には終わりません。ですから、かなり飛ばしていきますので、その点をお許し願いたいと思います。では、スライドをお願いします。
皆さんにお配りした中に、私のレジュメが2枚になって入っております。それにしたがってどんどん話を進めてまいりますので、よろしくお願いしたいと思います。
開国への道のり
開国への道のりということでまず最初にお話をいたします。1846年に、米国の東インド艦隊の司令長官をしていたビットルが浦賀に来て、開国をしろと言ったのですが、そのときには幕府は断りました。
その約7年後の嘉永6年、皆さんご存じのペリーが、米国大統領の国書を持って浦賀にやってきました。当時の国際情勢やいろいろな状況を判断して、とても日本が鎖国をしていられる状態ではないということから、この国書を受け取らざるを得なかったということが始まりです。
ところが、同じ年にロシアのプーチャーチンもやってきて、開国を求めます。それを聞いたペリーは、慌てて次の年、1854年2月に船7隻で横浜にやってきて3月に日米和親条約を結びました。
年次 | 来航者 | 交渉内容 | 交渉結果 |
1846(弘化3) | 米国東インド艦隊 司令長官 ビッドル |
開国通商要求 (浦賀) |
幕府は要求拒否 |
1853(嘉永6) | 米国東インド艦隊 司令長官 ペリー ロシアの使節 プチャーチン |
大統領国書持参 開国要求(浦賀) 開国・国境協定要求(長崎) |
幕府は正式に国書受理 |
1854(安政元) | 米国東インド艦隊 司令長官 ペリー |
条約締結交渉 (横浜) |
日米和親条約締結(3月) 日英和親条約締結(8月) 日露和親条約締結(12月) |
1855(安政2) | 日欄和親条約締結(8月) | ||
1856(安政3) | 米国総領事ハリス (下田に着任) |
通商条約締結を 要求 |
(堀田正睦(まさよし)は孝明天皇に 勅許求める) |
1858(安政5) | 大老伊井直弼は日米修好通商 条約締結(6月) 英・露・欄(7月)、仏(9月)調印 |
||
1859(安政6) | 横浜・長崎・箱館 開港 |
その条約の中で下田に公館(領事の下田駐在)を置くという約束ができていましたので、ハリスがやってきて下田に着任しました。その後、今度は通商条約を結べと、ものすごい剣幕で交渉をし始めます。それで、とうとう1858年に、伊井大老が天皇の勅許を得ることができないまま条約を結びました。これに続いて、通商条約を英国、オランダ、ロシアなどそれぞれの国とも結んで、1859年6月2日(旧暦)に横浜港を開港するという経過になったわけです。この写真は、浦賀にペリーが来たときの状態を、ペリーの船に乗ってきた画家が描いたものです。写真のこのところに外国の黒船が写っています。この時には4隻来ました。こちらが日本の侍などが乗る木っ端船も浮いています。このような状態で、まさに西洋の文明と日本との大きな違いを見せつけられた場面でもあります。
浦賀にペリーが来てから150年という節目の年に、今日このようなサミットを開いているわけですから、大変意義のある年に開催したと言えると思います。ペリーが1854年に横浜へ来て、来年が150年になります。その時に日米和親条約を結んだのが、明日皆さんが船に乗る大桟橋のたもとです。この写真は、ペリーが7隻の黒船でやってきまして、500人の海兵隊を連れてきて、横浜へ上陸した時のものです。2月に上陸してきて3月3日には条約を締結しました。
この写真の左側部分に交渉場所がありますが、この場所は現在の神奈川県庁のあるあたりです。シルク博物館は、この写真の木からもう少し東側のところにありますから、シルク博物館に近いところでこのような条約が締結されたということになります。
神奈川県庁と開港資料館の間の道(ペリー上陸の地附近)
この写真は現在の神奈川県庁ですが、この県庁付近に条約を結ぶ場所があり、この県庁近くのところからペリーらは上陸をしました。先ほどの写真で、アメリカの海兵隊が並んでいた場所は、県庁と横浜開港資料館の間ぐらいになります。この辺が横浜の開港資料館です。
この写真は、ペリーが乗ってきた船です。写真が不鮮明で申し訳ありませんが、外輪船といって船の両脇中央部分に駆動輪がついていて、これで海水をかいて進行し、煙を上げてきた黒船でした。長さが77.1メートルぐらいあります。当時にすれば、ものすごく大きな船で、幕府の役人をはじめ村人たちをびっくりさせました。これが開港当時に活躍したポーハタン号です。
それから、シルク博物館から横浜公園まで歩きます途中に、シルク通りがあります。ここに開港ごろといわれる大砲があります。開港するときに、小倉藩と信州の佐久間象山がいた松代藩が、幕府の命令で、外国人たちが来るから警護をすることになったと言われています。その時に、佐久間象山が持ってきたという大砲が5門あり、そのうち3門が横浜市のシルク通りの地中から出てきたといわれています。一説には、外国商社が購入した大砲で、関東大震災の際に土中に埋まってしまったとも言われています。
中区シルク通り(藤沢椛O)
ところが、大砲が出土した所の会社が閉じたものですから、この写真は10日ほど前に撮ったものですが、すでに2門がなくなって1門だけになっていました。ですから、近いうちにこれもなくなってしまうのかなと思いながら、この写真を撮らせてもらいました。このように、歴史的なものが横浜市内には残っております。
この写真は、通商条約を結んだ井伊直弼の像です。桜木町駅から、皆さんが今日午前中に、横浜史跡巡りで歩いた道とは反対側に10分ほど行った所に、掃部山があります。明治42年に旧彦根藩の人たちが建てて、井伊直弼を祀ったものです。これがちょうど開港50年でして、そのときに建立されました。しかし、井伊直弼の像は太平洋戦争で金物を集めるということで一度取り壊され、戦後建て直された2代目の像です。
掃部山公園の井伊直弼の銅像
ここに示した横浜地図については少し時間をかけてお話をしたいと思います。これは横浜が開港してから間もないころの地図で、フランスの技術者が測量をしたものです。横浜の開港にあたっては、現在のJR横浜駅の1つ東京寄りに東神奈川という駅があります。そこら一帯が東海道の主要な宿になっておりました。外国はここを拠点にしろということで、交渉では神奈川を開港することになっていました。
ところが、あの東神奈川は東海道の重要な宿でありましたし、また、非常に攘夷論が国の中で強かったものですから、外国人がこんなところにいたら、たちまちいろいろな傷害事件が起きるだろうということで、幕府は横浜を選び、開港することにしました。
ところが、ハリスはこの横浜の場所を見て、こんな不便なところを開港するとはとんでもないということで、かなり幕府とやり取りをしましたが、徳川幕府は強引にこの横浜を選定し、開港をしました。開港場所については、このように外国と幕府との間で非常にいろいろないきさつがあり、悶着はあったのですが日本側が押しきったと言えます。
次のこの地図は、慶応元年に測量した図面です。当時の横浜は、ピンク色に塗られている部分が日本人の居住地、黄色や青に塗られているところが居留地です。皆さんご存じですが、居留地は、この条約を結んで、外人が住んで商売をしなさいと決められた場所です。慶応2年に横浜は大火事がありました。現在の横浜公園の辺を当時は末広町といったのですが、私が指さしているぐらいのところで、豚肉を業としていた家から出火し、ピンク色に塗られた日本人居住地の部分が、3分の2ぐらい扇状に焼け、こちらの居留地も3分の1から5分の1くらい焼けた、大変大きな火事でした。この地図は焼ける前の状態で、この辺が横浜公園です。横浜公園の周りは、この図面に見られるように当時は沼地でした。それが埋め立てられて、今の横浜ができました。
横浜公園(チューリップと球場)
この横浜地図の左上に中華街がありますが、これは横浜新田といった場所で、ここも埋め立てでできました。昔の農道や畦道が、今の中華街の道になっていると言われております。中華街の道路は、このように横浜の全体の道路の流れから道の向きが違っております。ここは横浜港の大桟橋の元です。長さは約60間、幅は10間の石積みの突堤が真っすぐ出て波止場となっていました。この波止場をイギリス波止場とも言います。
また、イギリス波止場から少し離れたこちらはフランス波止場と言われるところです。この色を塗った部分がフランスの居留地で、この近くにフランス波止場がありました。ここからも輸出入が行われたということで、当時横浜にはこのような形の港がありました。
これは明治7年の図面です。先ほど示した慶應元年の図面では、横浜港の周りの居留地、居住地は堀切の川を作りまして、長崎の出島と同じようになっていました。この中に外人を住まわせたのです。そのうちに現在の桜木町駅付近の海も埋め立てられました。この埋め立て地に明治5年に汽車が走りますが、新橋と横浜が結ばれたときの鉄道が、この明治7年の図面に載っています。また、横浜公園のあるあたりの沼地も、すべて埋め立てられてきれいな街並みになっていることがお分かりいただけると思います。
次のこの写真は生糸などの積み出しをした大桟橋です。この写真は明治の終わりから大正の初め頃の状況の写真です。裏話をすると、攘夷論が非常に激しかった時代に、皆さんもご存じのように下関で砲撃事件があり、長州藩が負けて賠償金を払いました。この港は明治27年にでき上がるのですが、その当時工事費が200万円かかりました。今ならそう大した額ではないとおっしゃるかもしれませんが、当時はとてつもない大きな額でした。そのときに、この200万円のうち139万円はアメリカ政府の好意によって下関砲撃事件の賠償金が返され、港の建設費に充てられ、立派な横浜港ができたということです。また、この写真には人力車なども見られ、当時の風情が感じられます。
この写真も横浜大桟橋です。このように港が整備されると、大桟橋の上に鉄道のレールが敷かれて、いろいろな物資が運ばれてきます。また、入ったものが国内に運ばれていくというレールでもありました。この写真に見られるように、こういう大きな船が当時の横浜大桟橋に着いたということもごらんいただければと思います。
この写真は現在の横浜港です。先ほど示した明治7年の図面の中に、象の鼻のように出たイギリス波止場のこの部分が、このように現在もまだ残っています。ですから、明日横浜港遊覧船に乗るとき、あるいは赤レンガ倉庫にご案内するときには、この説明もしたいと思います。また、今日午前中に行った市内史跡巡りで歩かれた方は、この話を聞かれたかと思います。
大桟橋に残る象の鼻突堤
これは、高いところから横浜大桟橋方面を撮った写真です。明日皆さんにお集まりいただくのはこの建物ですので、よく覚えていてください。次お願いします。
横浜大桟橋
この写真は今日歩いた中にあった旧生糸検査所と帝蚕倉庫です。この説明は省略します。
この写真は、明治末から大正頃の横浜の弁天通りです。昔は海側から海岸通り、次に北仲通り、その次に、本町通りがあります。この本町通りには、生糸を取引する商人がたくさんおりました。
さらにもう一つ奥に入ると弁天通りがあります。今のJR桜木町駅の近くに弁天橋がありますが、あそこには弁財天を祀った神社があり、この神社に行く道でもありましたから、この通りを弁天通りと名づけられました。この弁天通りは、横浜で生糸貿易を行った商人の中でも、五指に入る大商人であった原善三郎、横浜一の輸出量を扱った商人である茂木惣兵衛、長野県出身の小野光景など生糸商人の多い通りでした。また、駒ヶ根市のシルクミュージアムができましてから、最近シルク博物館にも「天下の糸平」田中平八の話を聞きに来られる方が大分多くなりました。田中平八も弁天通りに住んでおりました。このように、この通りは生糸商人が非常に多かった通りです。
この写真は現在の弁天通りですが、昔の面影は全然ありません。
次のこの写真は、開港当初の居留地の状況です。居留地から見える海には外国船がたくさん浮いているのがわかると思います。スライドが悪くて恐縮ですが、当時の横浜港や居留地の様子が見えます。
この写真も、外国人が住んでいた居留地です。先ほどお話しした大火事があってから、耐火レンガなどで家がつくられるようになり、非常に西洋的な建物が多く並んだ居留地となりました。
この写真は大正7年、関東大震災の前にできた建物として唯一残っているものです。この建物は今回のサミット会場である県民ホールより少し先に行ったところにあります。現在、英七番館という赤レンガの建物があります。このような小さな建物ですが、当時の風情を残しております。
次のこの写真は、現在の海岸通りです。居留地時代はバンドと言われた通りで、グランドホテルの前あたりから写した写真です。奥の方にシルク博物館があります。
英7番館
この写真は現在のシルク博物館です。この写真の下のところで見にくいかもしれませんが、英一番館跡という碑が立っています。ここは、横浜港を開港した1859年(安政6年)に英国の商社であるジャーディン・マセソン商会という商社が横浜に来て、その年の12月にこのシルクセンターがある場所に、商館をどこの外国人よりも早く建てました。そういうことで、人呼んで英一番館、本人たちも英一番館と呼ぶようになっていきました。ジャーディン・マセソン商会は、非常に大きな会社でしたから、居留地の貿易をする人たちを束ねるといってはおかしいですが、そのような指導的な役割もしました。
次のこの写真は、現在シルクセンター脇の史跡英一番館跡と書かれた碑のところです。この碑は、博物館の「桑の森」に建っております。ここに植えてある桑の木は非常にやせっぽちに見えますが、この桑は横浜が開港したころに神奈川県津久井郡津久井町で栽培されはじめたというものを持ってきたものです。開港と同じころに植えられた桑で、非常に古木です。ただ、桑は本来もっとこの何倍も太くなっているはずですが、土地が悪いことで大きくなれません。そう大きくはありませんが、明日の見学の際に改めて見ていただければと思います。
シルク博物館の桑の古木と英1番館跡
生糸貿易のはじまり
いよいよ横浜開港で、安政6年から貿易が始まりました。貿易が始まると、この表に示したように、非常に多量の生糸が外国に出ていき、国内で使う量が非常に減ってしまいました。特に文久3年は大霜害があった年で、繭の取れ高が半分ぐらいになってしまいました。その年にたくさんの生糸が外国に出ていってしまったので、桐生にしても西陣にしても、各機業地は食うに食えないという事態に追い込まれました。これは、そういう国内生糸の少ないときの数字です。
年度 | 国内向数量 | 貿易向数量 | 国内向価格 | 貿易向価格 |
1857(安政4) 1858(安政5) 1859(安政6) 1860(万延元) 1861(文久元) 1862(文久2) 1863(文久3) |
514.0 箇 567.0 1,758.0 1,667.5 1,072.0 238.0 |
箇 11,585.0 12,523.0 35,235.0 26,552.0 |
24,160 両 28,375 140,640 141,737 96,480 28,560 |
両 1,189,685 2,523,500 3,420,820 |
次のこの表は、開港当初からの総輸出額に対する生糸の割合を示したものです。こちらが総輸出額です。ここに生糸の量が書いてありますが、この部分はパーセントで示してあります。総輸出額で生糸の輸出額を割ると、開港して2年目ぐらいは65%でしたが、文久2年以降は80%台になっています。いかに生糸が外貨を稼ぐための大きな輸出品であったかということがおわかりいただけるかと思います。
年 | 総輸出額 A | 生糸輸出量 | 生糸輸出額 B | A/B×100 |
1860(万延元) 1861(文久元) 1862(文久 2) 1863(文久 3) 1865(慶応元) |
3,954,299ドル 2,682,952 6,305,128 10,554,022 17,467,728 |
7,703ピクル 5,646 15,672 19,609 16,235 |
2,594,563 ドル 1,831,953 5,422,372 8,824,050 14,611,500 |
65.61 68.28 86.00 83.60 83.65 |
次に、開港当時の課税の問題についてふれます。日本は外国と不平等条約を結びました。その中に、協定関税(相手と話し合って関税を決める)という非常に不合理な税制で、自分の国で決めて相手国から関税を取ることができなかったのです。協定関税をなくすために、大変苦労して交渉します。40年という歳月をかけて、やっとなくすといういきさつがあります。
この表は明治の初めごろの輸出税を示しました。このように生糸やその他諸産品に、輸出するときは輸出税がかけられたのです。それも外国との協定の中に入っております。この表に示したように、蚕糸の屑物までみんな、それぞれにこのような税がかけられたということでした。
輸出品目 | 数 量 | 税 金 | 輸出品目 | 数 量 | 税 金 |
種 紙 生 糸 真 綿 熨斗糸 |
1 枚 9貫目 〃 〃 |
永100文 4 両 1 両 3 分 |
皮むき生皮苧 屑 糸 出殻繭 山繭種 |
9貫目 〃 〃 〃 |
1分2朱 2朱 2分 2分 |
この表は、各地域からこんなにたくさんの生糸が横浜港へ出てきたということを示しています。この数字は、1601年から1603年までの文久年間ですが、その3年間の平均です。一番多いのは、奥州(福島県)を中心にした東北地方です。横浜に出てくる、あるいは生糸を買い込む量の約40%を占めています。これに続いて上州(群馬県)で約20%、その次が信州の約10%ということで、非常に東北の生産量が多く、横浜に出てきたということです。ところが明治に入ると逆転して、上州が非常に伸びてきました。信州も明治12年ぐらいになると群馬県を抜くぐらいになります。このように信州・上州の生産がウナギ登りに伸びてきました。東北、関東、甲信越の地域が日本の生糸の一大生産地をなしていきました。他のところもありますが、その量は全体から見ると非常に少なかったのです。今申し上げたこの地域で、80数%から多いときには94%ぐらいの量を生産し輸出していました。
*文久年間(1年間分) | **明治6年5月〜7年5月 | **明治9年1月〜9年12月 | **明治12年1月 〜12年12月 | |||||
奥 州 | 駄 凡4,000 |
% 41.2 |
斤 179,785 |
% 19.5 |
斤 239,108 |
% 22.2 |
斤 394,518 |
% 18.0 |
羽 州 | 凡 500 | 5.1 | ||||||
信 州 | 凡1,000 | 10.3 | 102,019 | 11.1 | 179,290 | 16.6 | 624,926 | 28.5 |
上 州 | 凡2,000 | 20.6 | 448,437 | 48.7 | 407,820 | 37.8 | 582,273 | 26.6 |
武 州 | 凡 500 | 5.1 | 92,955 | 10.1 | 122,671 | 11.4 | 259,303 | 11.8 |
甲 州 | 凡 500 | 5.1 | 43,881 | 4.8 | 64,850 | 6.0 | 163,116 | 7.4 |
越 後 | 凡 200 | 2.1 | 6,315 | 0.7 | 4,262 | 0.4 | 12,598 | 0.6 |
越 前 | 凡 300 | 3.1 | 742 | 0.1 | 600 | 0.1 | 0 | 0.0 |
飛 騨 | 凡 200 | 2.1 | 4,065 | 0.4 | 9,190 | 0.9 | 46,515 | 2.1 |
美 濃 | 凡 200 | 2.1 | 5,540 | 0.6 | 11,015 | 1.0 | 3,766 | 0.2 |
近 江 | 凡 300 | 3.1 | 0 | 0.0 | 3,000 | 0.3 | 5,399 | 0.2 |
その他 | 37,401 | 4.1 | 35,675 | 3.3 | 100,503 | 4.6 | ||
合 計 | 凡9,700 | 100 | 921,140 | 100 | 1,077,481 | 100 | 2,192,917 | 100 |
この写真は八王子の島田糸で、島田本造りという糸です。こういう生糸が横浜に出てきました。
これから映し出す写真は、新潟や東北地方などの生糸ですが説明を省略します。荷姿(括)を見て下さい。これは上州(群馬県)大間々の糸で平糸と呼ばれました。
さて、ここに示しました写真の糸は、これがくせ者で、さげ糸といいます。これは上州さげ糸の写真です。日本人はこの括造りで大変悪いことをしました。この会場の後ろの方には見えるかどうかわかりませんが、この部分を元結といいます。この元結のところに紙を使って生糸を結わえております。昔、輸出するときには、100斤(60キログラム)当たりで、紙は、元結の目方が標準で2.5斤です。ところがこれに、石灰や白砂を塗ったり、糸を太くしたり紙を厚くしたりという悪いことをしました。そういうことをして、16斤という目方をつけて、60キロのうちの大変な量を紙と砂などで稼いでしまうような悪質な売り方をしたのです。
提糸
提糸(さげいと)は、ある意味では大変良い糸でもあったのですが、そういう悪いこともして外国の悪評を買った糸でもあったわけです。
次の写真は、曽代糸、江州達磨糸、奥州浜付糸などですが、説明を省略します。こういう糸があったということだけ見てください。これは、丹州の鉄砲糸です。
この表は明治9年からの各地から横浜への生糸の売り込み量です。明治13年、19年もそうですが、東北から関東、甲信越といった地帯が非常に多かったことを示しております。その後、横浜に出てくる生糸は国内のいろいろな地域から出てくるようになり、肥後あたりからもこのような数量の生糸が出てくるようになりました。段々日本の養蚕が盛んになって広まっていったことがわかると思います。
産 地 | 明治9年 | 明治11年 | 明治13年 | *明治19年度 | ||||
生 糸 | 付属品 | 生 糸 | 付属品 | 生 糸 | 付属品 | 生 糸 | 付属品 | |
上 州 岩 代 武 蔵 信 濃 美 濃 甲 斐 羽 前 飛 騨 磐 城 三 陸 但 馬 近 江 尾 張 越 中 越 後 越 前 加 賀 下 野 伊 勢 肥 後 その他・概算 |
584,142斤 326,867 292,478 283,005 50,796 48,215 36,043 27,587 25,323 25,243 21,461 18,840 14,405 13,622 12,657 10,728 4,205 956 388 11,585 |
281,061斤 158,479 227,699 180,002 17,280 7,078 38,215 4,977 12,692 232 13,540 25,406 614 203 1,888 10,025 1,124 496 124,374 |
14,624個 … 4,389 5,725 312 1,874 … 416 … 5,286 15 10 91 282 97 45 2 23 890 |
7,000個 5,842 3,795 3,321 1,001 454 992 … 159 203 268 747 18 28 213 31 39 765 |
7,155個 4,704 3,414 8,287 264 2,041 388 489 15 885 8 75 48 44 328 32 65 47 39 14 115 |
9,696個 6,183 5,345 5,698 1,635 1,942 1,820 46 197 174 82 3,963 13 208 222 77 92 15 7 678 |
群馬10,400 個 福島 6,854 神奈川3,323 埼玉 2,879 長野10,309 岐阜 3,273 山梨 3,659 山形 2,065 |
12,030個 7,036 7,617 2,279 6,642 3,861 1,885 1,910 |
計 | 1,808,546 | 1,105,385 | 34,081 | 24,876 | 28,457 | 38,093 |
この表は、明治9年から23年までの国別生糸生産高を示したものです。国別と書いてありますが、当時は上野国、武蔵国、信濃国となっていましたから、そういう国別の量で示しております。これも、今まで申し上げたような養蚕地帯からの生糸が多かったのです。それから、どんどん生産量を上げたということでは、例えば、信濃などはこの表からわかるように、非常に生産量が多いですし、上野(群馬県)も非常に生産を上げたということが読みとれると思います。
明治9年 | 11年 | 13年 | 15年 | 17年 | 19年 | 21年 | 23年 | 9 〜15年平均(A) | 21 〜23年平均(B) | B/A | |
上野 武蔵 信濃 岩代 甲斐 羽前 美濃 近江 磐城 飛騨 但馬 陸前 全国 |
339 259 242 201 141 120 70 61 56 41 35 26 2,048 |
337 213 240 169 187 108 68 88 66 44 46 43 2,266 |
739 324 405 281 211 139 119 116 93 58 94 49 3,331 |
499 462 467 196 118 104 121 97 133 66 57 53 4,132 |
1,168 41 1,609 323 191 216 109 270 113 82 91 67 4,901 |
1,067 443 898 568 294 196 171 300 274 92 80 239 5,692 |
1,232 487 891 480 406 243 179 187 211 83 98 129 5,902 |
1,084 696 1,556 452 396 274 239 405 267 68 115 129 7,426 |
445 268 341 204 175 120 88 102 79 51 53 43 2,525 |
1,592 607 1,290 455 412 267 214 312 237 85 104 128 7,364 |
3.5 2.3 3.8 2.2 2.4 2.2 2.4 3.1 3.0 1.7 2.0 3.0 2.9 |
横浜、長崎、箱館の3港を1859年に開港しましたが、次の表は、これら3港からの輸出額を示したものです。これを見ると、輸出した年の輸出額で見てもらうと、開港初年は、横浜では44%ぐらい、長崎が45%と、長崎のウエートも高かったのですが、次の年になると、横浜が輸出では80%を超える絶対的な輸出額になって長崎は陰をひそめてしまいました。輸入はまだ長崎の方が多かったのですが、この表からもわかりますように、横浜も段々と輸入額が多くなってきています。
年次 | 輸 出 | 輸 入 | 合 計 | |||||||||
横浜 | 長崎 | 箱館 | 全 国 | 横浜 | 長崎 | 箱館 | 全 国 | 横浜 | 長崎 | 箱館 | 全 国 | |
1859 1860 1861 1862 1863 1864 1865 1866 1867 |
44.48 83.89 70.85 79.63 86.45 85.10 94.47 84.85 80.08 |
45.38 12.73 26.42 18.19 11.37 10.97 3.03 12.01 14.65 |
9.74 3.38 2.73 2.19 2.18 3.92 2.50 3.14 5.27 |
100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 |
24.87 57.01 63.19 72.93 59.70 68.54 86.85 74.41 68.79 |
73.00 42.20 35.11 26.79 39.81 29.75 12.26 25.39 30.20 |
2.13 0.79 1.69 0.27 0.49 1.71 0.88 0.20 1.01 |
100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 |
36.80 76.89 67.91 77.30 77.44 77.92 91.04 79.77 72.84 |
56.53 20.40 29.76 21.17 20.95 19.12 7.19 18.53 24.62 |
6.67 2.71 2.33 1.52 1.61 2.96 1.77 1.70 2.54 |
100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 |
この表は、生糸の輸出港別の数量と価格の比率を示したものです。これで見てもらうとおわかりのように、3港を開港した中で、数量、価格ともに横浜が98、99%になっております。長崎からの量は3%ぐらいの年もありますが、1%以下で非常に微々たる量です。ほとんどすべての生糸が横浜港から輸出されていったと見ていただいてよろしいかと思います。
年 度 | 数 量 | 価 額 | ||||||
横浜 | 長崎 | 箱館 | 合 計 | 横浜 | 長崎 | 箱館 | 合 計 | |
1863(文久3) 1864(元治1) 1865(慶応1) 1866(慶応2) 1867(慶応3) |
98.43 99.05 99.08 99.19 96.96 |
1.57 0.53 0.32 0.81 3.04 |
- 0.41 0.60 - - |
100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 |
99.13 99.40 99.58 99.27 98.36 |
0.87 0.32 0.09 0.73 1.64 |
- 0.28 0.33 - - |
100.00 100.00 100.00 100.00 100.00 |
この表も、横浜港からの生糸等の輸出比率を示したものです。明治4年からの数値でありますが、この辺も横浜の輸出額等が99〜100%と非常に高いということを見ていただければと思います。
生 糸(千斤、 %) | のし糸(千斤、 %) | ||||||||||
全 国 輸出高 |
横 浜 輸出高 |
全 国 輸出高 |
横 浜 輸出高 |
全 国 輸出高 |
横 浜 輸出高 |
全 国 輸出高 |
横 浜 輸出高 |
||||
明治 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 |
1,323 895 1,202 979 1,181 1,864 1,723 1,451 1,637 1,461 1,801 |
94.6% 98.6 87.9 99.7 100.0 98.8 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 |
明治15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 |
2,884 3,121 2,098 2,457 2,635 3,103 4,677 4,126 2,110 5,325 5,406 |
100.0% 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 98.9 98.8 99.1 100.0 |
明治 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 |
390 584 329 456 423 746 615 1,074 1,491 1,407 1,682 |
45.7% 83.8 97.0 68.9 90.0 93.3 90.4 94.4 99.0 92.0 99.4 |
明治15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 |
2,219 2,463 2,053 1,503 2,252 2,206 2,252 2,513 |
99.9% 98.5 94.3 94.8 97.1 96.6 96.1 |
この表も横浜港からの生糸の輸出量を示したものです。明治4年から明治25年までの量を示してあります。輸出する比率を見るとわかるように、全国の輸出高のうち、表のBの数字(横浜港)をA(全国輸出高)で割るとここに示した横浜港の比率が出てきますが、明治4年から明治25年まで、生糸はほとんどが横浜から出ていったということがわかります。
年 別 | 全国輸出高 (A) |
横浜輸出高 (B) |
B/A 比 率 |
年 別 | 全国輸出高 (A) |
横浜輸出高 (B) |
B/A 比 率 |
明治4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 |
1,323 千斤 895 1,202 979 1,181 1,864 1,723 1,451 1,637 1,461 1,801 |
1,252 千斤 883 1,056 977 1,181 1,841 1,723 1,451 1,637 1,461 1,801 |
94.6 98.6 87.9 99.7 100.0 98.8 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 |
明治15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 |
2,884 千斤 3,121 2,098 2,457 2,635 3,103 4,677 4,126 2,110 5,325 5,406 |
2,884 千斤 3,121 2,098 2,457 2,635 3,103 4,674 4,083 2,085 5,291 5,406 |
100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 98.9 98.8 99.1 100.0 |
この表は、明治20年から大正元年までの生糸の全輸出額に対する横浜からの生糸輸出額割合です。これも、今説明したことと同じように、明治の後半から大正期も同様、横浜港からほとんどの生糸を輸出していたことを示しています。
年 度 | 生糸全 輸出額 |
うち横浜生糸 輸出額割合 |
年 度 | 生糸全 輸出額 |
うち横浜生糸 輸出額割合 |
年 度 | 生糸全 輸出額 |
うち横浜生糸 輸出額割合 |
明治20 21 22 23 24 25 26 27 28 |
19,280千円 25,916 26,616 13,859 29,356 36,269 28,167 39,353 47,866 |
100.0% 99.0 98.9 98.8 99.4 100.0 99.9 99.8 100.0 |
明治29 30 31 32 33 34 35 36 37 |
28,830千円 55,630 42,047 62,627 44,657 74,667 76,856 74,428 88,740 |
100.0% 100.0 100.0 100.0 99.9 100.0 99.9 99.9 100.0 |
明治38 39 40 41 42 43 44 大正 1 |
71,843千円 110,499 116,888 108,609 124,243 130,832 128,875 150,321 |
99.9% 99.9 99.9 99.9 100.0 100.0 100.0 100.0 |
次のこの表は、横浜港と神戸港の輸出入の比率です。これは総輸出高、総輸入高の比率を示したもので、別に生糸というわけではありません。明治6年から大正元年までのものを、私が勝手に抜粋させていただいて表にしました。横浜港の比率を見てもらうと、輸出は、初めのうちは非常に横浜の比率が高いのですが、ほかの港が段々と整備が進み、輸出するようになって横浜の比率が落ちていきます。輸入もそうですが、このように港の状況が変わっていくということもわかると思います。
輸 出 額 | 輸 入 額 | |||||||||
全 国 (A) |
横浜港 (B) |
B/A 割 合 |
神戸港 (C) |
C/A 割 合 |
全 国 (D) |
横浜港 (E) |
E/D 割 合 |
神戸港 (F) |
F/D 割 合 |
|
明治6 10 20 25 30 35 40 44 大正1 |
21,635千円 23,349 52,408 91,199 177,875 285,094 463,363 485,458 568,942 |
15,694千円 15,916 33,775 61,552 90,701 139,016 205,889 228,082 257,851 |
72.5 % 68.2 64.4 67.5 51.0 48.8 44.4 47.0 45.3 |
2,517千円 4,657 12,771 21,296 51,408 74,748 106,668 120,582 150,476 |
11.6 % 19.9 24.4 23.4 28.9 26.2 23.0 24.8 26.4 |
28,107千円 27,421 44,304 75,982 274,171 300,938 515,286 572,021 689,659 |
19,743千円 21,029 27,175 31,329 86,837 89,293 172,486 175,835 215,370 |
70.2 76.7 61.3 41.2 31.7 29.7 33.5 30.7 31.2 |
5,925千円 4,258 13,854 30,698 110,742 144,516 223,438 256,717 302,200 |
21.1 % 15.5 31.3 40.4 40.4 48.0 43.4 44.9 43.8 |
次のこの表はちょっと見にくくて申しわけないのですが、明治9年から明治43年までの生糸の輸出額を示しています。生糸や繭、蚕種、絹織物などいろいろ表記してありますが、こういうものが横浜港から大変な量で出ていったということで見ていただければと思います。
年次 | 輸出品(%) | 輸入品(%) | ||||||||||
輸出総額 (万円) |
生糸 | 繭 | 蚕種 | 絹織物 | 絹ハンカチ | 輸入総額 | 綿織物 | 毛織物 | 綿糸 | 砂糖 | 機械 | |
1876 1877 1878 1879 1880 1881 1882 1883 1884 1885 1886 1887 1888 1889 1890 1891 1892 1893 1894 1895 1896 1897 1898 1899 1900 1901 1902 1903 1904 1905 1906 1907 1908 1909 1910 |
2,181 1,592 1,554 1,926 1,898 2,148 2,693 2,607 2,184 2,422 3,185 3,378 4,071 4,186 3,233 4,954 6,155 5,503 7,302 8,479 6,170 9,070 8,031 10,828 9,513 13,382 13,902 14,658 17,021 14,559 20,085 20,589 19,081 20,516 22,517 |
60.5 60.5 49.9 49.4 32.2 49.6 60.3 62.1 50.4 53.8 54.4 57.1 63.6 62.9 42.3 58.9 58.9 51.1 53.8 56.5 46.7 61.3 52.4 57.8 46.9 55.8 55.2 50.7 52.1 49.3 55.0 56.8 56.9 60.6 58.1 |
2.4 1.6 1.4 2.4 0.6 2.1 1.9 0.8 1.2 0.7 1.3 0.8 0.6 0.6 0.5 0.4 0.5 0.7 0.3 0.2 0.1 |
8.7 2.2 4.2 3.0 5.2 1.4 0.5 0.2 0.2 0.1 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 0.0 |
0.0 0.0 0.1 0.1 0.2 0.1 0.3 0.3 0.6 0.9 2.2 0.5 0.5 1.3 3.2 3.3 7.6 8.2 12.6 12.6 12.0 10.5 15.2 15.9 19.6 19.0 19.9 19.7 22.5 19.9 17.0 14.7 15.3 13.3 13.8 |
3.3 3.0 4.9 7.7 5.6 5.6 7.0 4.9 6.2 7.3 3.7 4.4 3.1 4.5 2.9 2.2 1.9 2.7 3.3 2.7 2.5 2.0 1.8 2.1 |
1,884万ドル 1,949 2,601 2,333 2,634 2,147 2,035 万円 1,922 1,946 1,900 2,016 2,714 3,665 3,432 4,065 2,898 3,133 3,631 5,045 5,610 7,280 8,684 11,101 7,645 10,978 8,853 8,929 11,088 13,634 18,872 14,907 17,249 15,129 13,100 15,428 |
19.2 15.3 13.2 15.5 15.1 15.6 16.0 10.1 7.6 10.6 7.8 7.8 7.8 7.6 6.2 6.6 8.2 8.2 7.3 6.5 8.9 6.1 5.6 6.2 7.9 5.0 8.2 4.5 3.9 4.8 4.8 3.9 5.0 4.1 3.2 |
16.6 20.2 15.7 15.3 13.8 11.3 9.4 12.2 10.8 11.4 12.6 14.4 11.0 11.4 10.7 9.9 11.1 11.2 8.1 11.9 14.5 6.0 5.3 5.8 8.4 3.8 4.5 3.9 2.5 6.7 7.7 3.3 2.0 2.6 3.7 |
21.9 20.7 28.7 25.8 27.4 29.7 26.2 22.2 17.0 15.7 16.5 14.8 17.4 17.9 13.8 11.0 11.5 10.2 8.6 6.9 9.5 6.8 5.1 4.4 4.4 4.5 1.5 0.5 0.2 0.6 2.3 0.8 0.5 0.4 0.1 |
12.4 11.2 9.4 11.5 10.3 13.2 15.3 16.9 20.7 17.1 19.9 13.5 12.3 11.6 13.1 16.4 16.6 17.1 14.2 12.1 10.5 12.3 13.0 11.8 11.9 18.5 7.5 9.9 7.2 2.9 6.6 4.5 5.2 4.3 3.5 |
0.5 0.4 0.5 1.6 1.7 1.3 2.7 2.2 3.5 3.5 3.7 8.1 10.9 11.3 8.9 8.0 8.1 6.6 19.0 13.8 9.5 20.4 9.0 5.6 6.1 8.5 7.7 6.3 6.3 6.7 8.7 6.8 8.0 5.0 3.6 |
この表は、開港当初の横浜から輸出されていった生糸の売り込み相場とその時代の前橋や岩代地方の相場を示したものです。例えば、前橋の相場が、100斤で133両だったものが、横浜に持ってくると241両という倍近い値段で売れました。ですから、国内各地で生産された生糸は、横浜へ向けられたということがわかります。段々年がたっていくと、現地の相場と横浜の相場が接近してきます。それでも横浜に出した方がもうかるということでした。
年次 | 横浜輸出生糸売込み 相場(兩に換算) |
前橋提糸 相場 |
前橋地方 生糸相場 |
岩代地方浜付 糸相場 |
安政6年 萬延元 文久元 〃 2 〃 3 元治元 慶応元 〃 2 〃 3 |
322弗 (241兩) 450 (337 ) 370 (277 ) 403 (302 ) 459 (344 ) 500 (375 ) 617 (463 ) 744 (558 ) 756 (567 ) |
133兩 213 267 192 291 267 356 532 593 |
133 兩 213 291 188 291 248 376 492 582 |
266 兩 231 133 128 231 284 391 373 373 |
次のこの表は、横浜の生糸相場と外国の生糸相場がどうだったのかということを示したものです。外国の値段が100とすると、横浜で買い入れた値段は、リヨンあたりの42〜43%でした。だから、60%近い儲けがあったのです。ロンドンでも半分以上の儲けがあったということです。このような数字を見てもらうと、生糸は、日本から仕入れて外国へ持っていくと、大変利益があったと言えます。また、日本の生糸が非常にこの当時価格がよかったということもありまして、かなり輸出されていきました。
年 度 | リヨン相場(前橋1番) に対する横浜売込相場 |
ロンドン(前橋2番)相場 に対する横浜売込相場 |
1861 (文久元) 1863 (文久3) 1865 (慶応元) 1867 (慶応3) |
42.5 % 52.8 48.8 60.9 |
46.9 % 57.8 52.7 69.7 |
横浜港へは外国の船が非常にたくさん入ってきています。この表は船舶の国籍別による貿易額を示したものです。外国の船が入ってきた万延元年(開港から2年目)について見てもらうと、イギリスの船が非常に多いことがわかります。このように段々と年を追って貿易額が増えていきます。慶応元年までこの表に示してありますが、横浜に来る大半の船はイギリスの船でした。アメリカ、オランダ船もありましたが、何と言ってもイギリスの船がたくさん日本に入ってきて、日本へ輸出したり、日本のものを輸入したりという貿易をしていました。
年次 | 輸出・輸入別 | 貿易額合計 | イギリス | アメリカ | オランダ | フランス | プロシア | ロシア |
1860 (万延元) |
輸出額 輸入額 |
3,954,299ドル 945,714 |
52.42 % 67.45 |
32.98 % 26.31 |
13.90 % 4.85 |
0.71 % 1.39 |
-% - |
-% - |
合計額 | 4,900,013 | 55.32 | 31.69 | 12.15 | 0.84 | - | - | |
1861 (文久元) |
輸出額 輸入額 |
2,682,952 1,478,315 |
71.05 51.95 |
13.46 36.01 |
13.94 11.77 |
1.56 0.29 |
- - |
- - |
合計額 | 4,161,267 | 64.25 | 21.47 | 13.17 | 1.11 | - | - | |
1863 (文久3) |
輸出額 輸入額 |
10,554,022 3,244,589 |
81.46 78.37 |
6.13 8.69 |
6.51 8.96 |
1.77 1.25 |
3.61 2.43 |
0.52 0.30 |
合計額 | 13,798,611 | 80.73 | 6.73 | 7.08 | 1.65 | 3.33 | 0.47 | |
1864 (元治元) |
輸出額 輸入額 |
8,997,484 5,443,594 |
97.14 84.90 |
1.07 1.90 |
1.04 11.32 |
0.67 1.59 |
- 0.07 |
0.08 0.23 |
合計額 | 14,441,078 | 92.53 | 1.38 | 4.91 | 1.01 | 0.03 | 0.14 | |
1865 (慶応元) |
輸出額 輸入額 |
17,467,728 12,913,024 |
88.26 82.76 |
2.07 0.79 |
0.06 9.92 |
9.61 6.21 |
- 0.20 |
- 0.13 |
合計額 | 30,380,752 | 85.93 | 1.53 | 4.24 | 8.16 | 0.09 | 0.05 |
この表は明治6年から25年までの生糸の輸出先です。これも見ていただきたいのですが、当初はイギリス、フランスに非常に生糸が多く輸出されて行きました。ところが、イギリスあたりでも、明治17年ぐらいになると、輸入量が非常に減ります。フランスもそうですが、フランスは絹を使う産地でもありましたし、リヨンもありましたけれども、このようにだんだんと減っていきました。
ところで、この中で言いたいのはアメリカです。明治17年ぐらいから、アメリカが非常に日本から生糸の輸入をしはじめます。非常にアメリカとの取り引きが多くなってきます。ですから、これから段々大正時代に向かって、アメリカが大きな市場となって日本の生糸が出ていきます。
数 量 (斤) | 比 率(%) | ||||||||
合 計 | イギリス | アメリカ | フランス | その他 | イギリス | アメリカ | フランス | その他 | |
明治6年 7 8 9 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 |
1,202,132 979,193 1,181,387 1,864,249 1,461,618 1,801,182 2,884,068 3,121,975 2,098,398 2,457,203 2,635,294 3,103,584 4,677,708 4,126,741 2,110,315 5,325,148 5,406,856 |
567,440 389,685 426,174 814,467 251,527 341,076 432,853 473,717 93,048 62,099 111,682 155,626 363,227 54,636 9,783 138,726 71,805 |
6,612 74,871 4,764 34,219 549,545 434,926 1,004,243 1,036,531 1,060,389 1,321,675 1,420,925 1,733,338 2,364,229 2,271,411 1,392,939 3,115,092 3,304,022 |
387,077 400,726 637,531 849,370 641,004 1,018,550 1,406,685 1,598,151 941,256 1,048,935 1,085,852 1,088,598 1,835,736 1,702,511 675,758 1,952,222 1,879,621 |
241,073 113,911 112,918 166,193 19,542 6,630 40,287 13,576 3,705 24,494 16,835 126,022 114,516 98,183 31,835 119,108 151,408 |
47.2 39.8 36.1 43.7 17.2 18.9 15.1 15.2 4.4 2.5 4.2 5.0 7.8 1.3 0.5 2.6 1.3 |
0.6 7.7 0.5 1.8 37.6 24.2 34.6 33.2 50.6 35.8 54.0 55.9 50.6 55.1 66.0 58.5 61.2 |
32.2 40.9 53.9 45.6 43.9 56.5 48.9 51.1 44.8 42.7 41.2 35.0 39.2 41.2 32.0 36.7 34.7 |
20.0 11.6 9.5 8.9 1.3 0.4 1.4 0.5 0.2 1.0 0.6 4.1 2.4 2.4 1.5 2.2 2.8 |
この表は明治20年から大正2年までの生糸の生産量、輸出量、国別の生糸輸出額を示したものです。イギリスは非常に輸出額が減ってきますし、フランスも段々減ってきて、明治20年代以降になると、大変な量がアメリカ中心になっていきます。明治40年代ぐらいには70%を超える量がアメリカに輸出されていきました。
生 糸 生産量 |
生 糸 輸出量 |
生糸 輸出総額 |
国別輸出額割合 (%) | ||||
イギリス | フランス | アメリカ | カナダ | ||||
明治20 23 25 28 30 33 35 38 40 43 45 大正 2 |
805 千貫 922 1,173 1,709 1,641 1,893 1,834 1,949 2,452 3,174 3,644 3,741 |
3,147 千斤 2,110 5,431 5,811 6,919 4,630 8,078 7,293 9,373 15,100 17,438 20,738 |
19,392 千円 13,859 36,321 47,872 55,630 44,657 76,859 72,055 116,988 131,917 151,693 191,140 |
4.4 0.4 1.1 0.6 0.4 0.8 0.6 0.0 0.0 0.3 0.2 0.5 |
34.3 31.0 33.5 34.7 36.1 24.3 19.1 15.3 21.6 21.3 11.5 17.0 |
57.6 67.0 62.6 58.1 57.9 59.8 60.9 74.9 68.2 70.6 76.5 66.6 |
0.3 0.2 0.0 - - 0.4 1.4 0.1 0.0 0.2 0.1 0.3 |
この写真は明治11年にパリで万国博覧会があり、そのときに出品するものを撮影したのだろうと言われています。ここの写真に見られるように、さげ糸や、これは何糸かわかりませんが、多分島田糸ではないと思います。この辺は鉄砲糸のようです。このような生糸、それから、蚕卵紙(蚕の種紙)など、このような蚕糸関係のものが、当時は外国に輸出されていったということで、ごらんいただければと思います。
江戸流通機構の崩壊と五品江戸廻送令
徳川時代のものの流れは、江戸を中心に流通機構が成り立っていました。横浜開港により、江戸はつんぼ桟敷に置かれ、横浜へとものが運ばれ、生糸も運ばれていきました。それで困ったのが江戸の特権階級の問屋層です。この連中は食っていけなくなると幕府に泣きつきました。そのときに、江戸も物価が大変上がっておりまして、幕府は物価を統制するという名目で、1860年、開港2年目にして、皆さんもご存じの五品江戸廻送令(貿易統制のお触れ文)が出されます。その中の雑穀、水油、蝋、呉服、糸(生糸)、その中でも特に生糸が問題になりました。これを横浜に直接出すことはまかりならんということになりました。
これもおもしろいことがあります。江戸は江戸町奉行が取り締まり、一方、貿易をしている神奈川の方は神奈川奉行が締めておりました。役所根性ではありませんが、やはり役所の縄張りがありまして、五品江戸廻送令を出すと、江戸の生糸を扱う江戸町奉行の配下にあった問屋が横浜に出てきて、いろいろ口銭を取って輸出の実権を握るようにしようとしました。しかし、神奈川奉行は、江戸町奉行の配下が横浜に来てそんなことをやられたのではたまったものではないと猛反対をしました。また、外国人が生糸を取り引きをしているので、外国人の反対もあり、神奈川奉行の猛烈な反対により、五品江戸廻送令は江戸町奉行が考えていたように支配することはできませんでした。
この表に示したように、結局、江戸に送って、1分5厘程度の口銭(手数料)を取るぐらいになってしまいました。
年 月 | 年 月 |
1859 (安政6)年6月 |
*開港・貿易開始. 輸出産品の生産追いつかず、商品の開港地直送、 江戸の特権的な流通機構崩壊. *物価高騰 |
1860 (万延元)年3月 |
*幕府は物価抑制を理由に 貿易統制御触文(五品江戸廻送令)を布告 雑穀 水油 臘 呉服 絲(生糸) 産地から横浜への直接販売を禁止 *横浜貿易商人は江戸問屋による流通に神奈川奉行を後ろ盾に、糸問屋の横浜出店、売渡し口銭取得に 対し強行に反対 *神奈川奉行はこの輸出規制に外国商人からの抗議を恐れたことと、江戸町奉行の配下の江戸問屋が神 奈川奉行の管轄地に入込むことには反対。このため、当初の構想は神奈川奉行の抵抗で実施できず. |
1860 (万延元)年6月 |
*横浜送りの生糸は、当初目的とした数量、価格などの規制は実施できず、江戸の改所を経て、江戸問 屋が名目的な買い主となり、改所費用1分5厘程度の口銭をとって横浜に流すという規制に止まった |
1863 (文久3)年 |
*春蚕期霜害発生、収繭量大きく減産が予想され、価格急騰. *9月、横浜鎖港問題発生 (朝廷は一橋慶喜に横浜鎖港談判を命令. 外国代表は拒否) *幕府は五品江戸廻送令の強化をはかろうとするが在方荷主の抵抗などで失敗 *生麦事件の報復としてイギリス軍が薩摩藩を砲撃 |
1864 (元治元)年8月 1864 (元治元)年9月 |
*四国連合の艦隊を組織して下関の砲台を攻撃 *外圧に押され、町奉行は糸問屋を招致し輸出生糸買取制の廃止を命令.(五品江戸廻送令の無力化) |
1866 (慶応2)年5月 |
*「生糸蚕種改印令」を実施(江戸問屋による検査の廃止により 五品江戸廻送令の完全廃止) |
これではまずいということで、五品江戸廻送令をもっと強固にしようとしたのですが、文久3年は大霜があって収繭量が少なく、原料が減ってしまう上に、生麦事件で薩摩と英国が戦争をします。そのようなことで段々外圧が強くなり、とても江戸廻送令を強めることはできなくなりました。
また、攘夷論が非常に強かったので、生糸を扱う糸商が殺されたり、傷害事件が起きたりしていました。それで、江戸の糸商たちも江戸町奉行に生糸の取り扱いをやめさせてくれと申し出て、結局はやめてしまいました。ですから、五品江戸廻送令は実質4年ほどで終わってしまいました。
けれども、規則上きっぱりとこのような廻送令がなくなるのは慶応2年でした。実は、生糸・蚕種改印令が出されました。この改印令によって初めて五品江戸廻送令の完全廃止になりました。もう、これは名目的な廃止であって、実際には先ほど説明しましたように、元治元年(1864年)で五品江戸廻送令は終わってしまいました。
不平等条約改正へ向けての道のり
先ほど日本が不平等条約を結んだことをお話ししました。その中で、一番日本が不平等だと問題にしたのが領事裁判権と協定関税でした。これは、日本にいる外国人が傷害事件などを起こしても、その裁判権は日本にはなく、外国の領事が裁判するというものでした。また、日本が独自に関税を決めることができませんでした。
年 次 | 交渉担当者 | 交渉内容 | 交 渉 結 果 |
1872 | 岩倉 具視 | 改正交渉の打診 | 交渉失敗 |
1873〜79 | 寺島 宗則 | 関税自主権の回復 | 日米関税改定約書調印 英・独反対し条約締結無効 |
1882〜87 | 井上 馨 | 治外法権の撤廃 関税自主権の一部回復 |
*改正前提条件(外国人判事の任用、外 国人内地雑居)に政府内部・国民反対 *ノルマントン号事件発生交渉中止 井上外相辞職 |
1888〜89 | 大隈 重信 | 治外法権の撤廃 (各国と個別交渉) |
外国人判事任用に国民反対 大隈外相テロにより負傷 交渉中断 |
1891 | 青木 周蔵 | 治外法権の撤廃 | 英国と対等交渉し同意確認 大津事件発生 引責辞職 |
1894 | 陸奥 宗光 | 治外法権の撤廃 関税自主権の一部回復 |
*日英通商航海条約調印 (治外法権撤廃、最恵国待遇・関税回復、自主権一部回復) 1899年 他14か国とも条約調印 |
1911 | 小村寿太郎 | 関税自主権の完全回復 | *日米新通商航海条約調印 *各国とも条約調印 |
岩倉具視が1872年に条約改正の交渉を始めました。アメリカにもヨーロッパにも行きますが、とても相手にしてくれません。寺島宗則や井上馨、大隈重信などがいろいろと外交交渉をするのですが、なかなか治外法権や関税自主権を取り戻すことができませんでした。結局、1894年に陸奥宗光が治外法権を撤廃させることに成功し、関税の一部をこのときに初めて取り戻しました。また、小村寿太郎が初めて関税自主権を取り上げ、1911年にようやく日本は不平等条約をなくすことができました。40年以上の歳月をかけ、大変な苦労をして不平等条約をなくしました。この辺も詳しくお話しすると時間がかかりますので、説明を省略させていただきます。
開港と金融政策の変遷
開港したときに一番困ったのは、日本に銀行がなかったことです。幕府もいろいろな機関を試みました。幕府がまず作ったのは、商法司です。京都に本司、東京と大阪に支署、横浜には出張司を置き、銀行代わりのものを置きました。ですが、これではだめだということで、今度は通商司を明治2年に置きます。この通商司はいろいろなことをやるようになって力を持ってきました。その後、通商司は横浜為替会社を設立します。これに銀行の代わりをさせますが、これもなかなか今の銀行のようには動けませんし、いろいろと問題があって機能を十分果たすことができませんでした。
年 次 | 金融機関等の設置 | 記 事 |
1868(慶応4) | 横浜出張商法司設置 京都に本司、東京、大阪に支署 |
横浜出張商法司は太官札貸付けと洋銀買入業務実施 1868(明治元)年、吉田幸兵衛を「横浜商法司為替御用達」に任命 政府発行の「太政官札」貸付 |
1869(明治2) | 横浜出張通商司設置 東京に本司、各開港場に支司 |
東京商法司が出張し業務実施 「出張通商司」設置 通商司は明治4年に廃止 |
1869(明治2) | 横浜為替会社設立 | 太政官札の貸下、金券・洋銀券・銀銭札の銀行券発行を許可。 貸出、為替業務、両替、洋銀の売買等実施 為替会社は不完な組織、非近代的経営で行詰まった。 |
1872(明治5) | 国立銀行条例公布 横浜第二国立銀行設立 |
金融の円滑な推進と政府発行の不換紙幣を銀行の兌換紙幣に置き換え銷却処分を期待され設立 設立後、銀行券の信用が低下し資金が枯渇、ついに経営不振に。 |
1876(明治9) 1878(明治11) |
国立銀行条例を改正 横浜第七十四国立銀行設立 |
大正9年の金融恐慌で休業 |
1879(明治12) | 横浜正金(しょうきん)銀行設立 | 設立目的は銀貨騰貴防止、貿易収支不均衡是正 設立後、外国為替の業務を中心にした金融機関へ経営転換 |
それで、いよいよ明治5年には国立銀行条例が公布され、横浜第二国立銀行が設立されました。 国立銀行というからには国の銀行だろうと思うかもしれませんが、この当時は民間の銀行です。このような銀行が国内にできていきました。
例えば、明治11年に横浜第七十四国立銀行ができますが、これなどは大正9年の経済不況でつぶれてしまいます。このように、できた銀行も非常に経済恐慌などでつぶれてしまい、銀行に預金をした人たちに迷惑をかけたということもあります。
その後、明治12年に横浜正金銀行ができて、銀行らしい運営が始まりました。しかし、これも設立当初の目的とは違って、数年すると為替業務を中心とした銀行に変わっていきました。
現在、横浜正金銀行の建物が残っており、重要文化財にもなっております。この建物は現在、、県立歴史博物館として利用されております。
神奈川県歴史博物館(旧正金銀行)
短命に終わった蚕種輸出と生産・販売者たちの盛衰
日本が開国してみると、皆さんご存じのように、ヨーロッパのイタリア、フランスでは微粒子病が蔓延しておりました。日本から蚕種を取り寄せたら非常に作柄がよかったということで、開港すると蚕種が出ていくようになりました。
しかし、明治3年に普仏戦争があり、フランスが輸出入を停止します。そのため、この年から蚕種が暴落し始めます。ですが、日本はまだ昔の夢をもう一度ということで、たくさんの蚕卵紙(蚕種)を横浜港から輸出しようとして各産地から出てきます。それで、いろいろな悲劇を生むことになりました。
年 別 | 全国輸出高 (A) |
横浜輸出高 (B) |
B/A 比 率 |
年 別 | 全国輸出高 (A) |
横浜輸出高 (B) |
B/A 比 率 |
明治4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 |
1,400 千枚 1,287 1,418 1,335 727 1,018 1,176 887 813 530 374 |
1,395 千枚 1,285 1,409 1,334 727 1,018 1,176 887 813 530 374 |
99.6 99.9 99.4 99.4 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 |
明治15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 |
177 千枚 75 59 41 4 2 0.7 9 7 3 3 |
177 千枚 75 59 41 4 2 0.7 9 7 3 3 |
100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 100.0 |
結局、この蚕種輸出統計表にも見られるように、蚕種の輸出は、明治10年ぐらいを境にしてどんどん減っていきました。明治17年ぐらいになると、ほとんど輸出はないに等しくなりました。蚕種輸出は華やかな時代を迎えたのですが、その後の暴落によって大変な悲劇も生み、たちまちのうちに蚕種輸出の全盛な時期は終わってしまいました。
年次 | 数量(枚) | 価額(円) | 年次 | 数量(枚) | 価額(円) |
明治 元 2 3 4 5 6 7 8 |
1,886,320 1,377,493 1,397,846 1,400,027 1,287,046 1,418,809 1,335,565 727,463 |
3,712,351 2,500,056 2,566,759 1,285,189 2,247,365 3,063,037 731,578 474,920 |
明治 9 10 11 12 14 16 18 20 |
1,018,525 1,176,142 887,767 813,949 374,498 75,091 41,653 2,433 |
1,902,270 346,998 650,100 582,622 311,141 55,286 33,330 2,955 |
次の表は、開港当初の蚕種の輸出港別数量と価格を示したものです。これも見ていただくとわかるように、全体を100とすると、ほとんど95%以上が横浜から出ていきました。函館からはわずか2〜5%ぐらいの量が出ていたに過ぎません。
年 度 | 数量価額別 | 横 浜 | 長 崎 | 箱 館 | 全 国 |
1864 (元治1) |
数 量 価 額 |
94.65 97.86 |
− − |
5.35 2.14 |
100.00 100.00 |
1865 (慶応1) |
数 量 価 額 |
− 90.65 |
− 4.30 |
− 5.05 |
100.00 |
1867 (慶応3) |
数 量 価 額 |
88.58 96.17 |
− − |
11.42 3.83 |
100.00 100.00 |
それでは蚕種がどこに出ていったのかということですが、この表を見ていただくとおわかりになると思います。明治6年から18年まで示してありますが、これを見ていただくと、イタリアに大変多く輸出され、次にフランスに出ていっております。2つの国を合わせると、90%以上にもなります。パスツールが微粒子病の病原を発見して防除法を確立すると、日本の蚕種は段々輸出されなくなりました。ともあれ、この2つの国が日本の蚕種をたくさん輸入していたということを物語っております。
年 別 | 合 計 | フランス | イタリア | アメリカ | その他 |
明治6 7 8 9 13 14 15 16 17 18 |
1,410,809 枚 (100) 1,335,465 (100) 727,463 (100) 1,018,525 (100) 530,452 (100) 374,498 (100) 177,240 (100) 75,091 (100) 59,785 (100) 41,653 (100) |
445,831枚(31) 434,617 (33) 169,436 (23) 163,787 (16) 131,167 (25) 55,016 (15) 44,251 (25) 9,805 (13) 14,004 (23) 21,980 (53) |
819,138枚(58) 800,211 (60) 501,950 (69) 675,182 (66) 398,007 (75) 319,328 (85) 132,579 (75) 65,103 (87) 45,431 (76) 19,603 (47) |
65,639 枚 ( 5) 53,716 ( 4) 56,000 ( 8) 178,076 (18) 20 ( 0) |
80,201 枚( 6) 46,921 ( 3) 50 ( 0) 1,480 ( 0) 1,278 ( 0) 154 ( 0) 390 ( 0) 183 ( 0) 350 ( 1) 70 ( 0) |
次のこの表は、国内で、どこがそんなに種をつくったのかということです。これは明治6年の産地別蚕種輸出量を示したものですが、信濃国(長野県)が大変多いことがわかります。それから、武蔵国(埼玉県を中心にして東京都・神奈川県の一部)、羽前(山形県)などです。また、上野国(群馬県)、磐城国(福島県)あたりは、非常にたくさん横浜港に運んできました。
国 別 | 輸出蚕種量 | 国 別 | 輸出蚕種量 | 国 別 | 輸出蚕種量 |
信濃国 武蔵国 羽前国 上野国 岩代国 甲斐国 近江国 越後国 磐城国 羽後国 下野国 越中国 |
550,000 152,859 151,028 134,926 117,837 48,639 35,772 17、867 17,725 7,913 7,093 6、516 |
下総国 摂津国 常陸国 三河国 伊豆国 山城国 出雲国 陸前国 佐渡国 丹後国 陸中国 遠江国 |
6,143 5,727 3,303 2,812 2,561 2,107 1,736 1,586 1,434 1,418 1,400 1,398 |
備後国 飛騨国 上総国 肥後国 渡島国 和泉国 阿波国 尾張国 加賀国 相模国 駿河国 薩摩国 |
1,085 972 939 816 800 712 640 639 574 361 290 92 |
先ほど説明したように、明治3年に蚕種の大暴落がありました。プロイセンとフランスとの戦い(普仏戦争)が始まり、これでフランスが輸入を停止したため、日本の産地は大暴落を始めます。このころになると、蚕種を扱って横浜に来ていた売り込み商などは、みんな大赤字を出して没落していきました。自殺者も出るほど大きな悲劇を生んだのが、この時代です。
年 別 | 主 な 動 き |
1870(明治3)年 | 蚕種価格暴落始まる (プロセインとフランスとの戦争[仏普戦争]が始まりフランスは輸入停止) |
1871(明治4)年 | 蚕種価格大暴落 |
1873(明治6)年 | 横浜への出荷量128万8,755枚 輸出量128万8,043枚 内地積み戻し 712枚 |
1874(明治7)年 | 横浜への出荷量176万5,021枚 輸出量127万4,314枚 横浜公園で蚕種44万5,506枚焼却処分 内地積み戻し 4万5,201枚 |
1875(明治8)年 | 横浜への出荷量79万8,923枚 輸出量66万9,454枚 横浜で蚕種949枚すり潰し処分 内地積み戻し12万8,520枚 |
1876(明治9)年 | 横浜への出荷量119万3,344枚 内地積み戻し41万7,256枚 |
1877(明治10)年 | 横浜への出荷量 158万枚越える 横浜公園で蚕種31万2,421枚すり潰し処分 |
1878(明治11)年 | 横浜への出荷量 90万余枚 輸出量50万余枚 内地積み戻し30万余枚 横浜公園で蚕種 18万枚すり潰し処分 |
明治7年ぐらいになると、176万枚以上の蚕種紙が横浜に出てくるのですが、輸出は127万枚ちょっとです。それで横浜公園で44万5,000枚を超える蚕種紙を焼却処分し、一部は産地に送り返しました。翌明治8年にも横浜公園ですり潰しました。多いのは明治9年で、この年もたくさんの量を内地に返しました。明治10年になると、横浜公園で31万枚以上の蚕種紙をすり潰しました。明治11年も横浜公園で11万枚以上をすり潰しました。もはや蚕種が、輸出品としては成り立っていかない時代に向かっていました。
この写真は当時の横浜公園です。ここでこの写真のように蚕種紙を処分しました。当時は横浜公園のことを彼我公園といいました。
次の写真は、今の横浜公園です。チューリップが咲いているときに写させてもらったものです。このように昔の面影はなく、きれいな横浜市民の憩いの場として使われております。
不良生糸が招いた輸出の停滞
ここに示した表は日本からの輸出総額に対する生糸類の輸出割合ですが、生糸が主要な輸出品であったということだけ申し上げて細かい説明を省略します。
年 別 | 輸出総額(A) | 生糸類輸出総額(B) | B/A×100 | 年 別 | 輸出総額(A) | 生糸類輸出総額(B) | B/A×100 |
明治1 2 3 4 5 |
15,553千円 12,908 14,540 17,968 17,026 |
10,364千円 8,639 7,246 9,919 8,203 |
66.6 % 66.9 49.8 55.1 48.1 |
明治16 17 18 19 20 |
36,268 33,871 37,146 48,876 52,407 |
18,562 13,281 14,473 20,300 21,920 |
51.1 39.2 38.9 41.5 41.8 |
1〜5 | 56.8 | 16〜20 | 42.4 | ||||
6 7 8 9 10 |
21,635 19,317 18,611 27,711 23,348 |
10,898 6,601 6,469 16,210 10,667 |
50.3 34.1 34.7 58.4 45.6 |
21 22 23 24 25 |
65,705 70,060 56,603 79,527 91,102 |
28,783 29,250 16,737 32,175 39,914 |
43.8 41.7 29.5 40.4 43.8 |
1〜10 | 45.6 | 21〜25 | 40.4 | ||||
11 12 13 14 15 |
25,988 28,175 28,395 31,058 37,721 |
9,436 12,192 11,065 13,428 19,261 |
36.3 43.2 38.9 43.2 51.0 |
||||
11〜15 | 43.2 |
開港によって日本が生糸の輸出を始めると、日本人は決して良いことばかりしたのではありませんでした。良い生糸を一生懸命輸出した人もいるのですが、どこの馬の骨かわからないやつに生糸を売るのだからどういう糸でもいいだろうと、大変手荒い繰糸をして輸出した人も多くいました。そうなると、玉石混交の生糸輸出が始まってしまいました。いいものもあったのですが、悪いものも随分輸出されました。それで、明治時代の初期には生糸輸出が非常に停滞いたします。
年 別 | 生糸 | のし糸 | 真綿 | 蚕種 | 繭 | 年別 | 生 糸 | のし糸 | 真 綿 |
明治1 | 65 | 47 | 36 | 160 | 47 | 14 | 105 | 274 | 233 |
2 | 42 | 35 | 87 | 117 | 57 | 15 | 167 | 360 | 109 |
3 | 40 | 29 | 113 | 119 | 39 | 16 | 182 | 401 | 60 |
4 | 72 | 63 | 164 | 119 | 112 | 17 | 122 | 334 | 270 |
5 | 52 | 95 | 124 | 110 | 124 | 18 | 143 | 244 | 144 |
6 | 70 | 54 | 77 | 121 | 105 | 19 | 153 | 366 | 322 |
7 | 57 | 74 | 86 | 114 | 111 | 20 | 180 | 359 | 167 |
8 | 69 | 69 | 40 | 62 | 106 | 21 | 272 | 323 | 205 |
9 | 108 | 121 | 65 | 86 | 155 | 22 | 240 | 408 | 173 |
10 | 100 (1,723,004斤) |
100 (1,074,470斤) |
100 (90,582斤) |
100 (1,176,142枚) |
100 (358,071斤) |
23 | 123 | 467 | 205 |
11 | 84 | 175 | 47 | 76 | 80 | 24 | 309 | 535 | 233 |
12 | 95 | 242 | 139 | 69 | 147 | 25 | 314 | 673 | 274 |
13 | 85 | 228 | 175 |
年次 | リ ヨ ン 市 場 | ロ ン ド ン 市 場 | ||
伊国糸2番 | 日本前橋糸1番 | 伊国生糸上 | 日本前橋糸2番 | |
1861(文久 元) 1865(慶応 元) 1867(〃 3) 1868(明治 元) 1870(〃 3) 1872(〃 5) 1874(〃 7) 1875(〃 8) 1876(〃 9) 1877(〃 10) |
62.00 106.00 102.00 118.00 83.00 106.00 97.00 85.00 118.00 88.00 |
72.00 106.00 104.00 106.00 75.00 79.00 55.00 45.00 91.00 60.00 |
85.30 125.70 133.30 137.70 110.20 128.80 96.40 79.90 128.30 85.40 |
66.10 97.85 90.90 97.85 82.65 84.95 58.75 41.30 93.65 52.35 |
明治10年の輸出高を100にしていますが、この時代は全然伸びていません。つまり、ヨーロッパでは織物にする場合、日本の糸は縦糸に十分使えて非常に喜ばれたのですが、たちまち悪い糸が出回り、横糸にすら使いにくいと言われるようになりました。また、揚げ返すときにも水を打ちつけ、つなぎもしないで糸を巻いていくという打ちつけ糸を輸出しました。それで、日本の糸は使えないということになり、非常に輸出が停滞する時代がありました。このようなことがあるものですから、生糸の検査制度が重要になってきました。
粗製濫造生糸の取締と生糸検査への歩み
初めは生糸の検査制度も、慶応元年ぐらいからいろいろな取締制度ができて段々と取り組んできました。特に、明治6年ウィーンの万博で、佐々木長淳らがイタリアやフランスの生糸検査所を見て、帰国後に日本にも生糸検査所を作らなければいけないと提唱しました。しかし、そのころ国内では誰も作ろうという機運にはならないし、明治10年にフランスに留学した今西直次郎も帰国して一生懸命必要性を唱えるのですが、駄目でした。さらに、日本では明治16年に生糸検査諮問会を設け、生糸検査所を作ろうということで動きはじめ、全国の有力者に諮りました。しかし、このときにも設立案が不成立でした。
年 月 | 出来事・法規則等 | 主 な 内 容 |
慶応元年・2年 | 生糸取締達書 | 産地における改め印制度 手数料として口銭取立 |
明治元年4月 | 蚕卵紙生糸改所 | 大総督府が江戸に設置. 粗製濫造の不正を取締 |
明治2年 | 蚕糸改所 | 民部省は各開港場に設置.粗製濫造蚕種の取締、外商への蚕卵紙密売禁止. 生糸などに課税 |
明治6年 〃 〃 〃 |
生糸製造取締規則 生糸改会社設立 生糸商人申合規則 ウイーン万国博覧会 |
粗製濫造の不正を取締 粗製濫造の不正を取締.明治10年まで存続.明治11年生糸検査所と改名11年解散 粗製濫造の不正を取締 佐々木長淳(ながあつ)、圓中文助出席 伊・仏の生糸検査所状況を視察、生糸検査所設立提唱 |
明治10年 | フランス留学 | 今西直次郎 帰国後 生糸検査提唱 |
明治11年 | 生糸改会社を改名 | 生糸検査所と改名.明治11年解散 |
明治16年 | 生糸検査諮問会 | 農商務省が全国から有力者40名招集し開催. 生糸検査所設立の建議案不成立 |
明治27年 | 生糸検査所法案 | 衆議院を通過(濱名信平ら提案) |
明治28年2月 | 生糸検査所法 | 可決成立 明治28年6月生糸検査所法施行 |
明治29年3月 〃 6月 |
横浜生糸検査所 〃 庁舎新築 |
神奈川県庁に設置(告示) 横浜市本町1丁目1番地に木造2階建の庁舎建設. 明治29年8月 検査業務開始 |
大正12年9月 | 関東大震災 | 検査機器等に甚大な被害 |
大正15年6月 | 横浜生糸検査所新築 | 現在の横浜市中区北仲通5−57に新築・業務開始 |
昭和20年 | 連合軍庁舎占拠 | 太平洋戦争後、連合軍の宿舎として占拠. 昭和21年5月 一部返還され業務を開始 |
昭和55年 | 農林規格検査所 | 農林規格検査所に統合.平成3年農林水産消費技術センターに改組 |
けれども、段々と不良な生糸が問題になってくると、議会でも取り上げられ、やっと明治27年に生糸検査所設置法案が衆議院を通過し、明治28年に法律が可決されました。こうしてやっと翌明治29年に生糸検査所が初めてできました。そのときには神奈川県庁内に告示として設置されますが、実際に動き出したのは明治29年6月です。新庁舎が横浜本町1丁目1番地と書いてあります。現在、横浜市内には、本町通り1丁目から5丁目までありますが、昔は番地のつけ方が現在とは逆でしたので、5丁目付近が当時の1丁目でした。シルクセンターに近い道が5丁目になっていたのですが、1丁目は旧生糸検査所(現在の横浜第二合同庁舎)のある場所にかなり近い場所に作られたといえます。
これが当時の生糸検査所の写真です。
創立当初からの生糸検査所
次の写真は、最近撮影した旧生糸検査所の建物です。生糸検査所ではなくなってしまいましたし、建物も再建されて、外壁だけが昔の面影を残しております。
旧生糸検査所(横浜第二合同庁舎)
当時は、生糸検査されるようになると、先ほどさげ糸や鉄砲糸、島田糸などの写真をお示ししましたが、束装の仕方も改良され、このような形の束装をして、輸出されるようになったということです。
製糸機械化のはじまり
機械製糸のことをちょっとお話しすると、国営の富岡製糸工場が、皆さんは生糸機械工場としては最初にできたと思うかもしれません。実は前橋藩が、明治3年の外国の生糸の値段と日本生糸の値段を比べて、日本の生糸が非常に安いことを知ってびっくりします。そこで、速水堅曹が前橋藩に話をして製糸機械を外国から買い入れます。これがわが国の機械製糸のはじまりです。
その後、東京にも機械製糸が入って、富岡は3番目ということになります。明治時代において機械製糸が盛んになったのは長野県、愛知県、岐阜県などです。このような県が、非常に機械製糸が発達していきました。
明治24年・P | 明治29年 | 明治34年 | 明治39年 | 明治44年・Q | Q/P | ||||||
生産高 | 器械化 率 |
生産高 | 器械化率 | 生産高 | 器械化率 | 生産高 | 器械化率 | 生産高 | 器械化率 | ||
長 野 岐 阜 山 梨 愛 知 山 形 埼 玉 福 島 群 馬 小計A 全国B A/B×100 |
214,025 56,363 65,691 16,213 46,042 45,958 85,508 202,504 732,304 1,116,422 66 % |
84 86 70 69 37 11 8 6 |
323,039 63,490 69,460 43,056 50,549 55,485 92,452 187,090 884,621 1,442,720 61 % |
93 93 80 88 37 20 12 21 |
392,100 74,973 78,643 68,446 57,837 80,385 111,465 200,298 1,064,147 1,750,427 61 % |
93 89 74 87 34 29 13 10 |
522,599 99,377 117,735 107,439 76,169 127,488 101,848 137,552 1,290,207 2,063,603 62 % |
95 85 84 83 53 61 16 18 |
861,380 178,889 173,972 239,846 107,095 178,343 144,150 260,515 2,145,190 3,222,539 67 % |
97 75 82 93 67 72 35 35 |
4.0 3.2 2.6 14.8 2.3 3.9 1.7 1.3 2.9 2.9 |
経済不況や災害に立ち向かった人々
スライドはこれで打ち切りますが、今までお話ししてきたように日本の生糸が海外にたくさん輸出されていきます。その中でお話ししたかったことがあります。大正時代に大きな経済恐慌がありました。そのときに、日本は蚕糸業救済対策として第一次帝国蚕糸株式会社を作り、国内で生産された売れない生糸を買い集めて、製糸会社や農民を救済し、値段が上がるのを待って輸出しました。
年 次 | 主 な 動 き |
1915(大正4)年 1916(大正5年) |
第一次世界大戦(1914〜1918)の影響で、輸出停滞、糸価暴落、過剰生糸の処理問題 過剰な生糸処理のため帝国蚕糸株式会社を設立.原三渓社長に就任. 生糸の買取り保管を行い,暴落を防止. 景気回復.生糸輸出急増. 目的達成し帝国蚕糸株式会社解散 |
大正9年もそうです。そのときも大変な年で、銀行がばたばた潰れました。先ほども申し上げた横浜きっての大生糸売込商であった茂木惣兵衛(3代目)などは、手広く商いをやっていましたが、自分の銀行も潰れ、その他に大きな銀行も潰れてしまいます。そういう日本じゅうが大変だった年に、第二次帝国蚕糸株式会社ができました。これらの会社は両方とも、原富太郎(三渓)が関係者に諮り、政府、横浜正金銀行の協力を得て会社を作り、国内の蚕糸の救済をしました。
年 次 | 主 な 動 き |
1920(大正9)年 1922年(大正11年) |
大変な不況の年.輸出停滞.糸価暴落.過剰生糸の処理問題 過剰な生糸処理のため第2次の帝国蚕糸株式会社設立.原三渓社長に就任 (茂木惣米兵衛の第七十四銀行、横浜貯蓄銀行が倒産した年) 帝国蚕糸株式会社解散 大きな余剰利益金を政府に条件づきで寄付 ★ 横浜に生糸・絹物専用倉庫を設置することを条件に180万円 ★ 横浜生糸検査所の拡張費120万円 余剰金は、関東大震災後、新たな用地に横浜生糸検査所と帝蚕倉庫を建設(大正15年4月完成) |
第二次帝蚕会社を解散する際に余剰金(利益金)300万円が残りますが、そのうちの180万円は生糸や絹織物の倉庫の建設資金に、120万円は横浜の生糸検査所を充実させる費用として使ってくれと、政府に300万円を寄贈しました。
ところが、このお金が後に非常に生きたのです。大正12年9月1日の関東大震災で横浜市は見る影もなく潰れてしまいました。そのときの復興で生糸検査所も、朝見てこられた帝蚕倉庫などができました。そういうことで、横浜に貢献した一人として、原三渓は忘れ得ぬ人でもあるし、横浜が大震災から復興するときの復興会の会長でもありました。そういう大人物も、生糸売り込み商人であり、大活躍したわけでもあります。
おわりに
昭和4年、日本は58万キロという生糸を海外に売って、世界一の輸出量になりました。統計的にも最高の量でした。しかし、現在は生糸輸入国となり、輸出旺盛なりしころの勢いは見る影もありません。
端折ったとりとめもないお話をしましたが、時間ですので私の講演を終わらせていただきます。どうもご静聴ありがとうございました。(拍手)
進行(関川):どうもありがとうございました。大変時間に追われて、横浜港の150年まで行きませんでした。非常に駆け足で、しかもときどきのエポックも交えてお話をいただきました。どうもありがとうございました。