各地からの活動事例報告

高林: おはようございます。定刻になりましたので、ただいまよりシルク・サミット2004 in 八王子2日目の活動事例報告を開会いたします。
 本日は、お手元の資料のスケジュール表にございますように、9時半から11時まで活動事例報告の第1部ということになっております。そして20分間の休憩を挟みまして、12時20分まで活動報告の第2部ということで、これより始めたいと思います。
 その後、1時より見学会ということになっております。見学会をご希望された方、Aコース、Bコースということになっておりますので、12時20分に活動事例報告が終わった後、エレベーターの前へ集まっていただきたいと思います。Aコース、Bコース分かれて集まっていただくということになっております。そのときに弁当を皆さんにお配りいたします。
 その後、ご案内をいたしますけれども、エレベーターでおりていただきまして、正面に花屋さんがございます。それをずうっと行っていただきますと北口の出口になりますので、そこを出ていただいて、その後、交通のほう気をつけていただきまして、道を渡っていただくところでバスが参りますので、そのようにしていただきたいと思います。バスは1時にちょうどそこへ到着するということになっておりますので、遅れないようにぜひお願いをいたしたいと思います。
 それでは、本日、これから活動事例の座長を、第1部は木下さん、第2部は境さんにお願いをするということになっております。
 それでは、木下さん、お願いいたします。

木下: おはようございます。それでは、早速ですけれども、活動事例報告の第1部、各地域の活動事例ということで、座長を担当します農業生物資源研究所の木下と飯塚でございます。何とぞよろしくお願いします。
 まず、これからご報告していただきますけれども、ご報告していただく皆様にはまことに恐縮でございますが、お一人17分ということで、ぜひご協力をいただきたいと思います。14分で1鈴を鳴らさせていただきまして、できたらそこで報告を終わっていただき、質疑をぜひ3分くらいとりたいと思っておりますので、何とぞご協力お願い申し上げます。
 それでは、最初に奥田正美様から「染色の雑貨屋奥田染工場」ということで、活動事例報告をお願いします。よろしくお願いいたします。

染色の雑貨屋・奥田染工場
渇恣c染工場社長 奥田正美

奥田: おはようございます。八王子で染めをやっています奥田と申します。
 きょうはどんな話ができるかわかりません。脱線もするかもしれませんが、とりあえず頑張ってみます。映写をやってくれる家政学院大学の富田先生、きょうはちょっと助けてもらいながら進めたいと思います。よろしくお願いします。
 では、「染色の雑貨屋・奥田染工場」−何でこういう表題をつけたのか、説明させてもらいます。
 うちは代々染め屋というか、柄を染めてきまして、昔は、京友禅、ふろしきとか……。僕の代になりましてからはありとあらゆるものをやりまして、雑貨屋さんがつまようじからマッチから、今ライターも売っていますが、そういう世界でずうっと生きてきましたので、何でも屋です。何でも屋なので「雑貨屋」とつけさせてもらいました。
 うちがやっていることは、ごく当たり前のことを当たり前のようにみんなで勉強しながらやっています。11階の展示場で見てもらえばわかると思うんです。ここに原さんも来ていますが、いろんな仲間に恵まれまして、いろんな勉強をさせてもらっています。
 次に、染色教室を月2回やっております。クラフトの染色教室とシルクスクリーンの染色教室、うちの染め場でやっています。11階に展示してありますように、チオシアン酸ナトリウムによる塩縮と……。主に塩縮をやっています。といいますのは、硝酸カルシウムによる塩縮とチオシアン酸ナトリウムによる塩縮は染め方がちょっと違うんですね。縮むところが違うんです。チオシアン酸ナトリウムのほうは、プリントしたところが縮むんです。硝酸カルシウムのほうは、液で漬けますから、プリントしたところが縮まないんです。差は11階で見てもらえばわかるように、そういうことをやっています。
 この第1の目的は……。京都で、シリウスの根岸さんが、硝酸カルシウムによる塩縮を一生懸命勉強して、すごい成果を上げていますね。僕もシリウスの根岸さんにはいい勉強をさせてもらっています。一緒にちょっとやったこともありまして、すごい努力家ですばらしい人だと思っています。シリウスさんがやっているので、自分としては違う塩縮をやりたい。それで、京王のちょっと手前にあります産業技術研究所の小林研吾さんという技官の人に相談しまして、チオシアン酸ナトリウムによる塩縮を研究しました。ウールもちょっと塩縮したかったものですから、特にそういうこともあります。
 それから、普通にシルクスクリーンのBは、酸性とか反応とかを使って普通の天然繊維に関してはいろんなことをやっています。これも染色研究会です。
 Cは、草木のエキス。だから、周り近所にある葉っぱとか花の命をもらってそれを色に置きかえる。それを皆さんは液でやっていると思うんですが、うちの場合はプリント屋なもので、のりの中にそのエキスを入れて生地に柄を染める。そういうことをみんなでやっています。
 それから、クラフトとしては、これが石こうです。石こうを流して、ビニールの布を張った板があるんですが、枠にのりを乗っけて、こう……。これも石こうを流しているわけです。生地を張っておきまして、今ビニールで上からなすったものを生地にくっつけます。これは昔、一生さんで、よしずとかそういうものを、長い生地にしました。
 これは木版です。木の目をバーナーで焼いて、やすりでこすっています。これも布に写しています。これには抜染をやったり、防染をやったり、いろんな手法を、これに関してはいろんなところに出しています。あくまでもこれは特殊なんで……。普通のプリントもうちはやってますが。
 次は、僕は都立八王子工業高校を出まして、そこに僕の後輩の山口先生も来ているんですが、一緒にシルクスクリーンのネクタイのプリントを生徒さんとやらせてもらいました。最初に、柄を教室の生徒に出させて、それがプリンの柄に決まりまして……これがプリンの柄なんですが、このデザインをネクタイにしようと。これが完成品です。完成品をロットでやったんですが、とりあえず4色、こういうふうにしました。これはみんな、一型、一型、全部自分たちで柄を染めました。それの一部が11階に展示してありますけれども、みんな楽しそうでしょう。すごい楽しいんです。この中でネクタイのプリントがすんだ生徒はTシャツのプリントをして遊んでいます。
 4年ぐらい前から、僕が出た小学校で、染色を小学生にも遊ばせたい、地域でだれかいないかということになりまして、変なのがいるよ、変な染めばっかりやっているのがいるよということで僕に白羽の矢が立ちまして、僕もそこの卒業生だったものですからやりました。
何がいいかなと思ったんですが、思いがけない結果が出るものがいいなと思って絞りをやりました。シルクのハンカチにするために、お父さん用のハンカチとお母さん用のハンカチを2つつくらせました。だから、お父さん用のハンカチは男っぽく、お母さん用のハンカチは、ちょっと赤が入ったようなきれいなハンカチ、そういう意味でつくってもらいました。このやり方は、輪ゴムで絞ったりとか、糸で絞ったりとか、縛ったりとかして、糸の中にいろんな色の染料を入れておいて、最後に全体を染めるやり方をしています。物すごく子供たち楽しんでくれまして……。こういうふうに糸の中に染料を入れているところです。子供たちの顔に??????しながら結構楽しんでくれます。
  100人ぐらいの生徒の面倒を見るのに僕1人ではだめなので、そのときは黒田さんという、うちの近所の先輩の染織家の人に手伝ってもらいました。次のときは、女子美の二宮先生とか、東京トフィーの橋本先生とか、そういう人たちに手伝ってもらい、みんなで楽しみました。結構きれいでしょう。現物は11階にありますので、見てもらうとわかると思うんです。
 小学校ではシルクの生葉染めもやりました。和田先生という方が先生の傍らちょっと野菜などもつくっている、なかなかすばらしい先生で、僕が染織家の下地さんとか、四国の方から藍の種をいただきまして、それを一生懸命小学生と先生たちが育てまして、それが7月になったらこんな高い藍の木ができまして、みんなで楽しく生葉染めしました。うんととれたのでどうしようということになりまして、それを日陰干ししまして、翌年、ちょっともったいないので枯れた葉っぱを建てて、またそれもどんなに染まるかなという期待を込めて染めさせてもらいました。ここにはちょっと持ってこれなかったんですが、種から育てて染める。子供たちもすごく感動しますね。
 これはTシャツです。ハンカチもお父さんとお母さんにやる約束だったんですが、自分たちがどうしても欲しいというものもありまして、なかなかお父さん、お母さんには行かなかったこともあったみたいです。
 作文集は僕の勲章です。小学生とみんなで遊んだときにこういう作文を書いてもらいました。これがもう本当に僕の宝物で、毎回やるごとにこれだけは子供たちからもらっています。僕の宝物です。4つばかり出してありますので読んでください。
 大体こんなことなんです。もう本当に雑貨屋そのもので、取りとめもなく何やっているんだかわからないんですが、こんなことを楽しんでやっています。僕自身プリントをはじめて40年たちました。皆さんのおかげでいい勉強をさせてもらっています。これからも皆さんと仲間になっていろんなものができたら幸いだと思います。ひとつ皆さんよろしくお願いします。どうもありがとうございました。(拍手)

座長: ありがとうございました。ただいまのご報告に対しましてご質問等ございましたらお出しいただきたいと思いますけれども……。
 よろしいでしょうか。それではどうもありがとうございました。
 続きまして、佐藤幸香さんによります「『源氏物語』佐藤幸香の香染」ということで、ご報告をお願いしたいと思います。

『源氏物語』佐藤幸香の香染
『香染』工房 佐藤幸香

佐藤: 佐藤幸香と申します。よろしくお願いいたします。
 世田谷で染色をずっとしておりますけれども、いつの年でしたでしょうか、6月の梅雨の晴れ間を縫って、私は、染め場の周りにたくさん繁っていたシダで染めたんですけれども、そのときちょっと自分の体調も思わしくなかったので、ボーッとそこに立っていたわけなんです。そうしたら、お刺身のつまについている赤いトクサのような海の磯の香りがフーッと漂ってきたんですね。あれっと思ってシダの染め液を見ましたら、真っ赤なワインのような液がとれていました。
 これは何だろうと思ってフッと思っているうちに、恐竜があらわれてきたり、何かすごい樹林が出てきたりというイメージがずうっと湧いてきたんですけれども、海から陸に上がった最初の命というのは胞子だと言われています。シダの葉の裏を見ますと真っ赤な胞子がたくさんついているわけです。私はそのときに、自分の草木染めって一体どういうものであろう、自分の草木染めはほかの人とどう違うんだろうかと随分悩んでいましたから、そのときに感じた不思議な感覚というのがすごくびっくりしたんですけれども、最初の生命というのは胞子で、陸に上がって、それから樹林が生まれ、恐竜が出てきて、やっとやっと人間が誕生するわけです。その地球の命の色をシルクに染めますと何とピンクベージュなんですね。木の色、ヒノキとか桜とか、同じようなピンクの色をしていました。それがとっても不思議で、そのとき感じた海の磯の香りと色というものにすごく引かれまして、そのときに「源氏物語」の中に「香染め」という言葉があるということを思い出しました。それで「源氏物語」を色と香りという視点でもう一回読んでみようと思いまして、そこから私の香染めが始まっていったんです。
 そのときにいろいろあるんですけれども、「源氏物語」の最後のところに「宇治十帖」という、源氏の子供の薫中将という人と明石中宮の子供の「匂宮」という孫に当たる2人の恋のライバルの話になっていますけれども、文学的には私は勉強はそこまで深くはやらないんですけれど、「匂」と「薫」という2つの言葉の意味がとってもおもしろいなと思うんです。匂うというのは、もともとは「にほ」、丹という青丹吉(あおによし)の「丹」ですけれども、その丹が秀でていると書いて匂(にほ)です。だからクンクンかぐような臭のにおいではなくて、「匂」という言葉は、元来、色彩のことをあらわしているわけです。だから「青丹よし奈良の都」というのは、赤い柱と−辰砂(しんしゃ)という顔料、水で腐らないように赤いものを塗るわけですね−銅ぶきの青い屋根瓦がとても美しいという表現になっていますけど、その丹という字が秀でていると書いて「匂」だと。その匂宮と薫中将という人の性格描写、それから、なぜその言葉が2人の名前としてつけられたのか、そういうのをなぞ解きのような気持ちで読んでいきました。
 そうすると、薫というのは誠心の人ですから、自分の体内からすてきな芳香を持っている人として描かれています。でも薫は源氏の本当の子供ではなくて、正妻の女三宮と柏木との間にできた不義の子なわけですね。血のつながりはないのに、源氏と同じように体内から香りを持って生まれた男の人というふうに描かれています。匂宮は直系の孫に当たるんですけれども、体内からすてきな香りを発することがない。それで「香染め」と言って丁子で深く黄金色までに染めて、その衣を着ることによって自分の香りを創造していく、つくり出していくという男の人として描かれています。
 有名な一節で「丁子染のこがるるまで染める」と書いてあります。このときに「そめる」と読まないで「しめる」となぜ読むんだろうと。ほかにもいろいろ文章は出てくるんですけれども、「そめる」ではなくて「しめる」とそのとき読んでいるわけですね。上が、さんずいに「九」はハン、下は木です。火がないわけですね。だから今のように染料を煮て蒸発させて香りを抜いてしまうということがないわけです。お水の中に染める材料を入れまして前の日から置いておきますと、ゆっくりゆっくり色がしみ出てきます。それをとりまして染色を今私はしているわけですけれども、温度を上げれば上げるほど色というのは少しずつ濁ってきます。だから手間は大変かかります。温度は60℃か70℃ぐらいまででなるべく抑えるようにして、香りを逃がさないように繰り返し繰り返し染めていくという手法を私は、「源氏物語」の黄金色の「こがるるまで染める」という言葉の中からなぞ解きをして自分の染色というのをしています。
 源氏のときは香染めだというと、これが染めたものなんですけれども、丁子は、グローブといってオイゲノールという非常に抗菌力の強い成分ですから、歯医者さんのときの消毒液とか、香りは皆さんご存じだと思います。そういう漢方生薬だったりお香料の原料であったというところから丁子染めというものがあったわけで、自分の思いが何回も何回も繰り返していくというところから「こがるる色」と言って、丁子染めのもっと濃くなったものを「こがるる色」と称しています。
 源氏の中では、匂宮と薫さんの話もそうなんですけれども、丁子染めのものは、母屋の際に丁子で染めた几帳を立てて、お部屋の中央に沈香でつくった2段重ねのお厨子を立てる。それは不幸があったときの部屋のあしらいなんですけれども、丁子の殺菌力と香りは部屋を浄化するということもありましたので、風が吹いてくると部屋の中が丁子のすてきな香りで満たされていく。それからまた沈香は香木ですからすてきな香りがしますので、それに漆を塗ることもなくて、生のまま丁子のお厨子を部屋の中にする。そうすると丁子と沈香がまぜ合わさったとてもすてきな香りがする。それをほかの人にはできないようなしつらえだったと書いてあるんです。
 今、しつらえというのは家具とかお部屋のインテリアなどのことを言いますけれども、 1,000年昔の人たちは「すてきな香りでそれをしつらえた」という言葉であらわしているわけです。だから、染めるということも、お香をつくるということも、それから笛を吹く、書を書く、それは全部、女の人の手わざでありましたから、室町以降の男の世界ではなくて、武家社会の女の人たちが「我が家はこういうふうに染めるんだよ」と言ってお母さんが娘に教えていった美しい手わざの文化だと源氏の中から読み取りまして、私も自分の香染めというものをずっとやっております。
 これは岡谷の宮坂さんのところで、天糸、扁平糸という、全くよりのなくて……。文献では生の糸は150、 100デニールだと書いてありますけれども、私は180デニールの天糸を使わせていただいて、今ちょっとお話に出ましたようなそういう丁子、何回も何回も染めていく。香りを逃がさないように染めています。
 香りは、温められたり、お水につけることによって、もう一回すてきな香りになっていきますね。ですから、かぐとにおうかと思ってみんな香染めだというとすぐ寄ってきてにおうんですけれども、そういうことはなくて、お香でもそうですけれども、たどんの灰でゆっくり温められて香木からすてきな香りがすると同じように、丁子のくぎのさびたような、そういう不思議なつぼみの中からすてきな香りが出て、その香りからまた色が生まれて、色からまた香りが生まれるという、そういう不思議な世界を私は今とても楽しんでいます。
 薫さんという人は自分が体内からすてきな香りを発しているので、自分ではこういう丁子の香りの衣は身につけません。そのかわり丁子染めの扇で相手の人に風を送ってあげるんですね。そのことを「もてならす」と言っています。丁子染めの扇でもってもてならす。相手の気分を香りでもって穏やかにしてあげるということを「もてならす」と書いてあります。それが今のごちそうをつくったりそういうことではなくて、もてならす、相手をいい気分にしてあげる。だからさっきの沈香と丁子の香り……。お花の名前でジンチョウゲというお花がありますけれども、それは室町以降に入ってきた木の名前がすてきだったので「ジンチョウゲ」という名前がついたわけですけれども、1,000年昔にもう日本の女の人たちは、沈香と丁子がミックスした香りをとてもすてきだという表現は源氏の中では既にされているわけですから、やはりそういうところにすてきな日本のセンス、五感に響くような美しい香りと色の文化というのがあったと私は思っています。
 これは直衣(のうし)で、180デニールで全然のりつけをしないで織ったんですね。そうすると、よりがかかってないので非常に難しい。それは精錬をする技法がその当時どういうものだったかということにどんどん迫っていくことになりました。よりがかかってないために普通の方法でやるとばらばらになってしまう。何とかしゃっきりとした麻のような感覚の木の風合いを出したくて、精錬に随分時間をかけてやりました。アルミに焼きミョウバンでやるロダンの精錬方法を使わせていただいています。今やっとこのぐらいのかたさなら織れるんじゃないかなと思って、95ハの1パに2本どりぐらいでこれは織り上げたんです。
 先日、10月11日に沼津の御用邸でお香席がありまして、そのときちょうど源氏香をやりましたから、ご一緒にちょっと展示させていただいて多くの人に関心を持っていただいて、色と香りという世界がまだまだあるということを感じ取っていただけたのがすごくうれしかったと思います。どうもありがとうございます。(拍手)

座長: どうもありがとうございました。ただいまのご報告に対しましてご質問等ございましたらお出しいただければと思いますけれども……。
 じゃ私のほうから一つ、香染めということで一つの丁子という染料ですけれども、ほかにも何かございませんでしょうか。

佐藤: 大体は丁子だと思うんですけれども、お香の原料になっている白檀ですとか、「源氏物語」の中にはそれは書いてありませんけれども、ほかにはいろんな色の重ねの方法とかいろいろ書いてありますので、自分で今テキストブックをつくってその話はいろいろと書いております。本にまとめているんですが、私自身は、お香の原料になる八角、茴香ですとか、シナモンですとか、白檀とか、バチェリーとか、そういうお香の原料になるものは一通り香りを逃がさないように染めて、それは絹糸の中に封じ込められて色となっているんですけれども、首の周りに置いて自分の体温で温められると、丁子などは特にオキシフル、オイゲノールですから、のどがスーッとします。自分の体温で温まると香りがちょっとフッとしてのどがすごく楽になりますし、八角は中華料理のにおいなので好き好きがありますけど、白檀は皆さんすごく好まれるし、きれいなちょっと渋いピンク色、赤色なんですけれども、それもまたなかなか味があると思います。だからお香の原料で今使われていて、京都の生薬屋さんから分けていただいた漢方薬でもって大体は染めていることをベースにして、あとは茜ですとか「源氏物語」に出てくる色、ブドウですとか、そういうものを一つ一つ試しています。

座長: ほかにございませんでしょうか。どうもありがとうございました。(拍手)
 それでは、続きまして、東海林杏子さんによります「透明から白そして色の不思議に魅せられて(白き音楽)」ということで、ご報告をお願いいたします。

透明から白そして色の不思議に魅せられて(白き音楽)
染織家(新匠工芸会々員) 東海林杏子

東海林: はじめまして。東海林杏子でございます。
 昨日は本席に出席させていただきまして、八王子の皆様のすばらしい情熱を伺いました。私は本当に偶然にこの席におります。糸を求めて、滋賀県、長野県、山梨県、いろいろなところをお訪ねしている中で、岡谷の試験場の所長さんから、今回この席に報告していただけないでしょうかということでしたので……。私は静岡市内で染織をいたしております。学生時代からしておりまして、35周年記念の襲色目(かさねのいろめ)の植物染料で染めた色を皆さんに、きょうも少しですけれどごらんいただきます。
1.創作過程
 染織の創造止場で生きている私は、自然生物科学や人類技術の多元的な領域と交り合うことが必然であり、それは常に宇宙や人間への思索に向かわせますが、何処から来るのか心の深い内存在から泉のようにわき上がる魅惑の感動があり……感動の対象が宇宙森羅万象自然の時。文学、音楽、建築工芸美術など人間歴史の時。……私の精神が対象の意思や表象の秘跡を感受し、私の身体を通して芸術世界に入って行き、スケッチや心象デッサンを描き、デザインを創る抽出は作曲であり、タスピリィ(壁掛)、タブロ(額画)、屏風、意匠衣装の絲染め機織りは表徴の演奏となります。感動は想像を生じ想像はイマジン(想像すること)を育てて映像の素材と技法を選び造形に導かれます。
 素材は二次的なものですが、素材のひとつであった“絹”“蚕”天の虫は、1988年6月私を変容させました。
2.蚕−天の美しい約束の虫−
 30年来、座繰り手挽き絲、手紬糸を産地方々から取り寄せ、種種(いろいろ)染め織りて、京都の撚糸屋に生繭座繰り手挽き絲、玉絲、手紬糸、手紡糸等の蚕種、質、デニール、撚回数、形状など詳細に発注するようになりましたのは20年程前からです。
 桑の木も知らず蚕も視たことない私は1985年、小谷次男先生をお招きして、春蚕生繭座繰り手挽き絲講習会を拙宅で行いましたが、翌年1986年から1990年まで春繭養蚕と手挽き絲の研究に明け暮れ、生まれて初めて掌に蚕をのせました。ひんやり静かで荘厳な感触が伝わり、物語の主人公に逢っているようでした。
 1988年のこと、卵から桑葉のみ与えて育てるのは例年のことでしたが、蚕達の傍らで寝食して数週間の或日、上簇、繭つくりの頃、「如何なる色を得るかは一にかかって如何なる白を得るかだ」「白的々」「白い上にも白く白重(しらがさ)ね」云々して、言葉の概念に漂って居た私は、突然、鳴り響いた絃の音に顫えた。言葉は音に砕かれ跪いた。
 一頭の蚕が上簇の繭外側で上体を弓形に反らせ、頭部を廻して絃を弾くように掻き鳴らした。すると下の桑葉に這っていた蚕達は一齊に上体を立ち上げ震わせて呼応した。一音二音、やがて蚕は清かに透き通る繭空間の中へ入り、無限大∞描く一条の絲吐き絶えずして繭籠り。優しく重なり合い濃萌葱(こきもえぎ)色の桑葉を食していた白蚕達が、ひとつひとつの繭へ変容してゆく季(とき)を知らせる告別の音か、白鳥の歌か、否、白蛾の歌であろうか。
 真白な蚕が白瑠璃の幽透明体となって空中を昇って行き、空間に白繭(しらまゆ)を造ってゆく姿はこの世のものとも思われず、我を忘れてより添った麗しき日々。
“蚕”それは“天の美しい約束の虫”ほのかな光と陰翳を重ねて繭は煌き、幽かな白に妙なる白を襲ねてゆらめく。襲色目なら“氷襲”(表白瑩(しろみがき)裏白無文)を想う。
 神秘な白の気品を、はたして私は織り込み現せるであろうか。
ひとすじに無限大∞描きつつ、繭籠り白繭つらぬきて飛翔する白蛾のように。いつの間にか、蚕は幻の気韻を放つパーフェクトの結晶体。
 美しい白は人類が創造できる色ではないと知った。青い地球を人類は創造できないと同然に。
在りし日の蚕達を思い出すことが出来る私が生かされていることに感謝して、祈ります。忘れ得ぬ天の虫達に捧ぐ。
3.絲−白き音楽−
 南アルプスから遙かな旅の水は安倍川の伏流水となり、アトリエ庭井戸で汲む光しずく迸る水。絲が着くと苔むした庭井戸と染場を往き来して精練が始まり、以前は庭で藁を燃やして藁灰汁をつくり、精練しましたが、今は酵素精練しています。
 小谷先生講習会では七輪に炭火、上州式座繰り器で温度40℃位から手挽きし、温度が上昇に従い、絲は挽きやすく早く捲かれ、繭つくり無限大∞波の絲様(いとよう)が消えて、高温で挽く程、絲は直線的になり弾力が弱くなるように思われました。
 卵から育てた蚕は絲挽きの後、茶色の蛹になって半透明繭殻の中で不動でした。食べてみました。天の虫魂魄(こんぱく)の結晶白クリームチーズを。生きることは死ぬこと、死ぬことは生きることと、天の虫以上に私に悟してくれた存在はない。生物存在に必要なあらゆるもの、地球上五元素(木、火、土、金、水)と空気、光、宇宙生命体そして、不可視で人類を超越した大きなものの形而上精神。胡麻粒より小さなものが驚くべきものにつくられてゆく生命のダイナミズム。幻の絲を求めて京都、滋賀、岐阜、長野、山梨を歩き人々に会い地域気候風土、文化歴史、蚕種、養蚕、絲挽きの様々に感慨深く御教示頂きました。湖北楽器絲の江州ダルマ絲を訪れた25年前は私の天の虫達に逢う前でしたが、この絲で織りたく念いました。時経て、蚕を育て絲挽き…織っていると折々聞えたのは、あの天の虫の奏でた繭音。再び湖北に走った。以降毎年、少量挽いて戴いております。5000年前の人々も不思議な虫の繭音に惹かれて、ただならぬ音色あればこそ、美音降臨のひとときを伝えて来たのではないでしょうか。絃は音楽の風に、衣は風に翻って国境を越え、民族を越え、宗教を越えて地球の人々を魅了しつづけて、昔も今も。
4.草木染め機織り−『染織α』誌1993年「静岡の文化」文化財団1998年エッセイから抜粋要約−
 『此の十数年来、世阿弥「花鏡」の一節“せぬひま”をテーマの創作であった
言葉は精神であり、精神は歴史である。染織の歴史は文学の歴史でもあり、植物染色彩(しょくぶつそめしきさい)の世界は殊に平安朝文学色彩の世界でもある。周知の如く、現存する平安朝の染織品は前奈良期より少なく、ささやかな遺品の残り香に夢みるは、様々な古典書籍、「枕草子」「源氏物語」等の随筆、物語や和歌、日記に記(しる)された織色(おりいろ)、合色目(あわせにいろめ)、襲色目(かさねのいろめ)の鏤められた色彩の輝きである。
  春 … 桜衣(さくら)・桜萌葱(さくらもえぎ)・早蕨(はやわらび)衣・壺菫(つぼすみれ)
  夏 … 蝉羽衣(せみのは)・菖蒲襲(しょうぶがさね)・夏蟲色(なつむしいろ)・白襲(しらかさね)
  秋 … 青朽葉(あおくちば)・鴨頭草(つきくさ)・虫襖(むしあお)・櫨紅葉(はじもみじ)
  冬 … 氷襲(こおりかさね)・椿・初雪・雪下紅梅(ゆきのしたこうばい)
  雑・織色… 秘色(ひそく)・今様色・葡萄染(えびそめ)・香色(こう)・比金襖(ひごんあお)
          瑠璃色・青白橡(あおしらのつるばみ)・赤白橡(あかしらのつるばみ)・玉虫色・脂燭色(しそく)
  春・秋・冬… 紫匂(むらさきのにほ)ひ・紅匂(くれないのにほ)ひ・松襲(まつかさね) 等々。
 ユーラシア文化の影響、大和色彩一色一色を典拠の延喜式から平安朝装束四季折々の「折にあひたる色あひ」… 紫草・茜草・紅花・梔子・刈安・櫨・楊梅・桜・訶梨勤・藍生葉など季に適う染料で染め、高機で経絲と緯絲の十字を鑽(き)る風の演奏(機織りはパイプオルガン奏楽のよう、経絲はパイプ、緯絲は手鍵盤、踏木は足鍵盤)が始まると、天の虫達が連弾聯弾(だんだんれんだん)に加わり、ゆえ知らず心の炎が燃えたのである。… 』
・断章 … “言葉「せぬひま」世阿弥”“延喜式から襲色目へ”“桜匂ひ”“灰のΑ(あるふぁ)からΩ(おめが)へ”“光と水と”“光源氏の白き御衣(をんぞ)”“白瑩(しろみがき)を想ふ”
5. 今後の課題といたしまして、
 ・養蚕農家、座繰り手挽き絲の後継者達との更なる交流、お互いの現場に赴いて。
 ・光(自然、人工)による褪色、黄変そして保存について、科学化学と加工の問題は、 現在までも研究されている薬品助剤と共に、絲染時の染料、助剤が環境に及ぼす影響を、世界の染料会社、並びに繊維会社、生物資源研究機関等とのシンポジウム。識者・各位の御教示を仰ぎたく存じます。
6.おわりに
 現在、岡谷試験場のフラットシルクを茜草の根(西洋茜・インド茜)で緋赤(あかのあか)に染めて緯絲に、湖北の江州ダルマ春蚕生繭座繰り手挽き絲を藍生葉染の白と雑植物染(くさぐさのしょくぶつそめ)の黒で経絲に用いて、W.A.モーツァルトのミサ曲をテーマシリーズとして小さなタピスリィに織っています。西洋茜はマドンナの気も狂わんばかりに秘められた緋赤(あかのあか)
 mad(狂気の)madder(西洋茜) made(つくられた、成功した)maddonna(聖母)。織りについては、西陣機屋に注文した能装束も織ることが出来る私用大高機で様ざまな創作染織をこころみ、12本オクターヴ踏木足鍵盤が歌うように演奏織り奏でることを祈りて織機に入ってゆきます。
 関係・各位皆様に深く感謝申し上げます。 ご清聴ありがとう存じました。(拍手)
 何かご質問があれば質問してください。今この明るい状態、これでないとこの桜の色とかよくわからないと存じます。それとこちらに今まで染めてきた草木染めの1箱も持ってまいりましたので……。この西洋茜が、岡谷の試験場からフラットシルクの西洋茜で染めた糸でございます。それもございますので、ごらんください。

座長: ただいまのご報告に対しましてご質問等ございましたらお出しいただきたいと思いますけれども、よろしいでしょうか。どうもありがとうございました。
 それでは、第1部の最後でございますが、甲田順子さんによります「復元『青梅縞』」ということでご報告をお願いしたいと思います。

復元『青梅縞』
青梅市 甲田順子

甲田: 青梅市から参りました甲田でございます。よろしくお願いします。
 何か大変ロマンチックなお話が続いた後でちょっとがさつなお話になるかもしれませんが、私は青梅市で青梅縞の復元の仕事をしております。今回は、八王子工業高校の村野先生のご紹介で、展示とお話をさせていただくことになりました。
 ここへ展示したものは明治時代のもので古い着物です。もう大変傷んでおりまして汚れておりますけれど、これが比較的その当時典型的な青梅縞と言われている着尺です。ほとんどいろんな資料がない中でまれに見つかったもので、ごみの中に入っていたものの中からいただいた着物です。
 青梅で織っている青梅縞というと、皆さん「どんな夜具地?」とおっしゃる方が多いんですが、青梅縞は着尺地なんです。縦糸が藍染めの木綿と絹糸の交互の縞になっておりまして、横は藍染めの木綿だけなんです。視覚的には絹が半々ぐらいの感じに入っているものが多いんですが、ほとんどは横も木綿ですから感触としたら木綿に近いところがありますけれど、絹糸が入っている関係で、ちょっと動かしまして光が当たると何とも言えないはんなりしたつやが出るんですね。これはもう着古していますけれど、これでもちょっと光の当たり方によっては何とも言えないつやがあって、それがこの布の魅力だったんじゃないかと思います。これを復元した新しいきれは下に展示してありますけれど、それはずっとつやがありまして、木綿がそんなに多いとは思えないぐらいの感じの布になっております。
 私は青梅市に30年ぐらい住んでおりますけれど、十数年ぐらい前からいろんな方に織物の話なんかすると、特に青梅生まれで青梅育ちという若い方はかつて青梅が織物の産地であったということをご存じない方が大変多くて、ちょっと年齢の上の方でも、大体戦後の一番布の悪い時期の青梅縞の青梅の夜具地の印象が強くて……。戦後の夜具地は皆様ご存じのように色落ちも激しかったりしたものですから、使い勝手は大変よかったようなんですが皆さんの印象が大変悪かったんですね。本当に残念なことなんですけど、皆様が「エーッ、どんな夜具地?」というような、余りいい印象ではないんですね。それでいろいろ青梅縞のことを……住んでいますといろんなことに書いてあったりいろんなことで報告されてますからいろいろ目に触れたり聞いたりはしていましたけれど、大体、夜具地の前に着物を織っていたということをご存じない方が多いんですね。
 青梅だってとってもいいものを織っていた時代があったんだよというのを特に若い方なんかには知っていただきたいと思ったんです。長く織物を織ってますと、ご多分に漏れずどこの土地もそうでしょうけれど、糸偏のほうはどんどん斜陽になっていって、青梅でも今機屋さんは全然なくて……
(テープ切れ目)
……青梅では青梅縞を長いこと商品にしていたんだから、いろんなデータとか品物とか簡単に手に入るんだろうと思って始めたんです。そんなに大上段に振りかぶったわけでもなくて、みんなにちょっと見てもらえればいいよねというぐらいの軽い気持ちで始めたものですから、資料がそんなに大変だと思わずにはじめましたら、幾らいろいろ探してもほとんどいろんなものが出てこないんですね。郷土博物館が現存する3点の新しい反物を持っていまして、それは全然着物に仕立てていなくて反物になっている状態なんですが、文化年間と文政年間と明治に織られたという反物なんです。それも反物になっておりまして文化財に指定されていますから、「織る前にさわらせてほしい」と言いましたけれどさわらせてくれませんで、ショーウインドーのケースの中、あれを見ろと。その拡大写真を見て、それでやれと言われて……。
 それでやるといっても、それはもう大変なことなので、結局あちこち奔走しましたら2センチ四方ぐらいの布端をいただいたんです。分析していただいて、その布端で復元することにしたんです。ですから、本当は糸がとても大事ということがわかっていても糸の様子を見ることもできないんです。ただ、分析していただいたこのぐらいの糸は、よりの様子とかそういうのがわかりますから、試験場の方といろいろ相談して、この糸ならいいだろうとかこんな感じならいいだろうということで始めましたけれど、絹と綿が入っていますと、織っている方はご存じですけど伸び方が違ったりいろいろするので、のりつけとか、よりぐあいとか、練りぐあいとか、いろんなことが分析だけでは出てこないことがあるんです。
 青梅縞のことをいろいろ書いてある本は、しっかりした本が青梅市でも1冊あるんですけど、それはそういうつくり手の側からのものが何も書いてないということを発見したんです。どのぐらいの量を織っていたとか、何人ぐらいが織っていたとか、そういう産業のほうから見たことしか書いてなくて、どういうふうに道具は使っていたとか、どういうところでどんな仕事をやっていたとか、そういうことはほとんど書いてないんですね。試行錯誤しながら小さなものをたくさん織って、ようやく博物館が持っていたものを1点まず復元しました。それから縞帳がありまして、その縞帳の中から数点復元しまして、縞帳もノートにピタッと張ってありますから布をさわるわけにもいかず、糸もはがしてみるわけにもいかず、大変だったんですけど、およそということでまず織り始めたんです。
 まだ本当に不十分だったんですけど、そういうことで発表をすればどなたかが見て、何かまた新しい情報が入るんじゃないかなということで、2001年にとりあえずまず1回発表しました。そうしましたら、この着物が出てきたり、「うちもこういうのを見たことがある」と言ってたくさんいろんな方が持ってきてくださったんですけど、ほとんどのものが絹なんですね。こういう木綿の入っているものは一切なかった。たった1点だけだったんです。青梅のような木綿の産地では絹のものは上等なもので、だからとっても大事に着ていて、これは明治の生まれのおじいさんのものなんていう羽織と着物のセットなんていうのを持ってみえても、青梅縞とそっくりには織ってありましてもそれは絹で織ってあるんですね。ですから、多分、内織り用に織られたものなんだと思うんです。そういうものはたくさん出てくるんですけど、なかなか本当の青梅縞というものが出てこないんです。
 でもこれをそのときいただいたおかげで、居敷当てをほどきましていろいろ分析して、なかなか思う糸がなくてあちこち探しまして何とかそれに近い糸を見つけて、縦は基本的には藍染め、絹は白でやっていますけど、縞帳なんかですと、梅の枝を染めたとか、藍染めで染めた絹とか、杢糸をつくっていたり、そういうものを使った縞のものがあります。基本的には縞物なんですね。
 これをまた織って、2004年、ことしの5月に復元したものを展示いたしました。これは着古していますからつやもないですけれど、復元した青梅縞のきれでつくったベストは木綿が多いと思えないぐらいつやがあってやわらかくて軽いんですね。大変好評なんです。私たちもこの何年かずっと復元してきましたからたくさんいろんなきれ端を持っていますので、それでもってたくさん洋服をつくって着たんですね。スカートにしたり、上着にしたり、ベストにしたり。そうしましたら大変軽くてすごく着心地がいいんです。割合長いシーズン素材の関係で着られます。なので、今後は青梅縞は着物ではなくて今に生かせるような洋服になるようなものになっていけばいいかなと思って、それが私の今の目標になっています。
 いろいろ復元するに当たって、青梅縞がいつごろから織られていたんだろうとか、いろいろ古いものを読んだりしておりまして、青梅市の公式の発表ですと1400年代に青梅縞の市が立ったというふうに書いてありますけど、江戸時代のころに書かれた本の中にそのようにして書いてあったというので、その裏づけを書いたものは青梅市ではまだ出てきてないんです。それは一応青梅市の中では定説になっていますけれども、実際には立証されていないところがあります。1669年に、上長淵村というのが青梅市にあるんですけど、そこの村鑑の中に「青梅縞に入れる絹糸は」という記録が出てくるんです。それが一番古いものではないかと思うんです。青梅縞というのは、木綿だけじゃなくて絹を入れていたという記録の最も古いものではないかと思われます。
 いろいろ調べていっているうちに年表ができてしまったんですね。それで年表を下に展示いたしましたけれど、いろんな村明細帳とか村鑑とかそういう青梅市の市史の中からいろいろ読んだりして、青梅縞はどうしてなくなってしまったんだろう……。これは明治の中ごろに粗製乱造をしたんだそうです。幅が狭かったり丈が短かったり、それから工業高校の前身の染織の雑誌に書いてあるところによりますと、染めが悪かったと書いてあるんですね。織りも悪いけれど染めも悪い。色落ちする。それで青梅縞は問屋さんがもう一切受け付けないということがあって、いろいろ試行錯誤するんですけど結局うまくいかなくて、明治38年に夜具地に転向しちゃうんですね。そのときに新しい織物協同組合をつくって、新しい夜具地の産業に入っていくんです。そこで今まで青梅縞を織っていたものがなくなってしまっていますので、正式には青梅縞は明治38年の前までしか産業としてはやってないんです。その後ももちろん、うちで織られるとかいろいろあったかもしれませんけど、マーケットとしてはそのあたりが終わりなんですね。
 そんなものですから、この100年近く青梅縞というものは織ってなかったんです。それでも身近にいろいろあったはずだから、あちこちで展示したときにあちこちないかと聞いて歩きましたら、うちにこういう着物がこの間まではあった。青梅市はごみが10年ぐらい前に有料化になりましたけど、そのときにどちらのお宅でも大量に捨てたというお話を聞いて、本当に今の日本の時代だなと思いました。いろんなものがそういう形でなくなっていってしまうんだなと思ってとっても残念なんですけど、古い青梅縞がまた出てくればそれの復元をしたいと思っています。今、もう一点、内織りの青梅縞の小さな端ぎれをいただきましたので、ただ、分析したりしても糸の様子がどの程度わかるかどうか、それがわかれば次の分析をしたい、青梅縞の試織をしたいと思っています。
 時代によって青梅縞も糸が随分違ってきまして、ここらあたりは一番最後のころですので、紡績の糸で双子の糸、60双を使っていますけれど、明治の初めぐらいのものですと、15番、20番、30番の単糸なんかを木綿は使っているんですね。絹は21中を使っていますけど、時代によって木綿はちょっとずつ変わってきて、その木綿の糸をどこからどういうふうに仕入れていたというデータは青梅市では全然ないんです。それで蕨とか川越のほうで唐桟や野田双子の会とかいろいろ復元している方たちがあって、そこで古い川越のほうの古文書を読んでいる先生のものを読ませていただきましたら、蕨の高橋シンゴロウさんという方のお宅が、青梅や所沢に木綿の糸を農村でつくらせて売りに行ったという記録があるんですね。青梅あたりでは木綿の糸をつくっていたという記録もないので、多分そちらから糸は入ってきたんじゃないかなと思っています。
 その後、明治のちょっと前の万延元年には、蕨の高橋さんと川越の中島さんという方が横浜に行って、木綿の「洋糸」といって双子の糸を仕入れてくるんですね。それまでは単糸で太い糸でしたけれど、細い双子の糸を仕入れてきて、それを織って売り出したらつやがすごくあって大変売れたんだそうです。そこからのルートがあり、そこが仕入れたということは青梅市にも入ってきて、結局このこの着物を織った頃の糸は、日本でつくっていたのか輸入した糸なのかはっきりしないんです。ただ、大阪紡績会社というのがあって、80番とか60番の糸を販売されていたそうです。それが明治32年ですから、これはきっとその前後のものではないかと思われます。
 そんなことで、まだまだ青梅縞を復元したと大きな声で言えるほどのことではありませんけれど、こういう機会にお話しさせていただいて、また皆様がどこかで青梅縞の端ぎれなどごらんになったらぜひご一報いただいて、よろしくお願いしたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)

座長: どうもありがとうございました。ただいまのご報告に対しましてご質問等ございましたらお出しいただければと思います。
 それでは、私のほうから一つご質問したいんです。先ほど青梅縞は綿と絹の交織というお話ですけど、糸使いというのは、縦が綿で横が絹ですか。

甲田: 縦が綿と絹の交互です。それが細い縞だったり太い縞だったりしますけど、基本的には交互に使っています。

座長: 横はどうですか。

甲田: 横は木綿だけです。藍染めの木綿だけです。木綿は基本的には藍染めだけです。絹は藍で染めたり草木で染めたりしていますけど、梅というふうに書いてあります。青梅は、今もそうですけど梅の大変な産地で梅は一年じゅう手に入りますから、梅で染めたのは間違いないと思います。よろしいでしょうか。

座長: ほかにございませんでしょうか。それでは、どうもありがとうございました。
司会: それでは、以上をもちまして、活動事例報告の第1部を終了いたします。
 では、第2部まで20分間の休憩に入りたいと思います。11時10分に第2部を再開したいと思います。よろしくお願いをいたします。


多摩シルクライフ21研究会の活動事例報告
テーマ:「地域に根づく蚕糸・絹づくり」

座長(境): これから多摩シルクライフ21研究会の活動報告を発表させていただきます。
 初めに、シルクライフの会員であります井上さんから始めさせていただきます。
 その前に、15分の時間しかございませんので、12分たちますと1鈴が鳴ります。15分たちますと本当の鐘が鳴りますので、よろしくお願いいたします。

多摩で絹を織る
多摩シルクライフ21研究会 井上奈己

井上: 井上奈己でございます。展覧会とか展示会は慣れておりますけれども、しゃべるのは私わからないので失礼してしまうかと思いますが、よろしくお願いいたします。
 私は、ひょんなことから織物の世界に入ってしまいました。入ったというか、迷い込んじゃったみたいでなかなか抜け出ることができなくて、もう35年以上たってしまいました。父親から手ほどきを受けました。初めは大反対で、織物なんかやってもらっては困ると言うのです。当時の繊維試験所に引っ張って連れていかれまして、所長さんに「娘がこんなことを言ってますが、織物は大変だからやめさせるように説得して下さい」と父が申しましたら、「お嬢さんがやりたいんならお父さんは技術だけを教えてやって、お嬢さんのやりたいように、色のことや何か口出ししなくていいから技術だけを教えなさい」と言われて、かえって父が説得されてしまいまして、仕方なく教えざるを得なくなった次第です。
 実を申しますと、私の家は、織物業を私の生まれ育った八王子で、明治、大正、昭和と生業としておりました。主に御召、銘仙、袴地を作っていました。御召、銘仙両方とも絣です。袴地は無双で(表地と裏地が一枚の織物)、表が平織り、裏が繻子織り、絽袴は表が絽織り、裏が繻子織り、そしてのし目の子袴は絣の技法で、お能のためと聞いております。大正末から昭和の頃、ネクタイ地とか洋傘なども織っておりました。今私が着ております着物もそのころ織った御召で縦絣です。ちょうどこんな機会でしたから探しましたらありましたので、きょう着てまいりました。
 けれども、昭和18年ぐらいに家業としての織物をやめてしまいましたので、私の育った限りでは家業が織物という環境はありませんで、家で織物をやっていたという記憶はないんです。ただ、いろんな残骸がありましたから、よく崩れた筬なんかで、それを崩すと薄い紙みたいな竹の一片を指で曲げて弾いて飛ばして遊んでたりはしましたけれども。
 父の思っていた織物と、私のしたい織物とはかなりずれておりました。私は織物組織は平織りまたは簡単な綾織りで、縞とか絣の織物を初めから作りたいと思ってました。そして染色は植物染料でと、現在、生糸、玉糸、紬糸などを使って、着尺、マフラー、ショールなどを織っております。そして染色のことですが、まず生糸を藁の灰汁で精練して染めます。染料は良い時期に良い植物を採りたいと思いますので、できるだけ自分の周りのものを使って、それでも足りないものは購入しております。
 それはもう何十年もやっていることなんです。その以後、私、天蚕の織物というものを始めましたけれども、以前から山繭、天蚕にあこがれのようなものを持って、私には到底そんなの難しくてできないことと思ってあきらめておりました。でも糸をどうにか引けないものかなと思いまして、その当時、都立の立川農業試験場の分場があきる野市にあったんです。あきる野支場に時々出かけまして、引き方を職員の方に教わりました。ちょうどそのころに多摩シルクライフ21研究会の方々と知り合ってこの会に入ることができましたけれども、それも幸いでした。当時の秋川支場は、人口飼料の研究開発、中でも天蚕の人口飼育と天蚕繰糸にとても力を入れたときでしたので、偶然が私にとってはとてもよかったんです。
 しばらく何年か秋川の試験場に通いまして天蚕繰糸をやっていたんですけれども、その後、立川支場が行政改革により閉場されることになったんですね。そのときに天蚕繰糸機を私のところに借り受けることができたんです。それで家に持ってきまして、今は本格的にある時期……。ほかの織物もやりますので、ずっと天蚕のことばっかりはやってられないんです。ですので、生繰りで1年に一度の期間、夏の間、2,000粒ぐらい自分で引いております。その作品がこれとこれなんです。向こう側の着物のほうは、縦糸が普通の現行品種の絹でして、絣に染めまして、横糸を全部自分で引いた天蚕で織ったものです。ですから、向こうは縦糸だけが普通の絹糸、横糸が天蚕です。こちらのショールは100%なんです。天蚕の色がとってもすばらしいんですね。こういう感じなんです。これは「もじり織り」といいまして糸を絡んだ織り方で織ってあります。
 初めのうちは、何年かある時期にほんの少しずつ秋川に行って天蚕繰糸をしていましたけど、実際家に繰糸機が来て始めましたらすごいんですね、もうのどがガラガラになっちゃうし、息ができないんです、苦しくなっちゃって。あるときなんかは、ここから1メートルぐらい歩くのもやっと。それで夜寝るときには眠れないんですね、苦しくて苦しくて。そうしたら繭の中の、あれ何ですか、境さん、白い粉。天蚕を引いているときにすごく粉が出るんですね。機械なんか真っ白になっちゃうんです。初め秋川から来た機械が真っ白でよくお掃除していたら、そこにカウンターのメーターなどがついていたんですけど、そんなのなんか見えないぐらいにすごく白くなる。シュウ酸、尿酸、それを吸っちゃいましてとっても息苦しくなっちゃって非常に困りましたのは、変な話ですけど、お葬式なんかに行きますでしょう、会場に入りますとお線香のにおいでせきが出て……。そのころ秋川にいらした杉田さんがいろいろ指導してくださったんですけれど、その方にお聞きしましたら、アレルギーだろうから5年もやれば治るとおっしゃってくださったんですけど、確かにそうでした。ただマスクをして引いておりますけれども、今はやっとなれました。
 そんなので、糸はよく切れるし……。けれども家蚕でなく、天蚕の繰糸を習いましたので、繰糸というのはこういうものかと思って余り気にしなかったんですね。そうしたら家蚕を引いている人が、天蚕は大変でしょうと聞かれるんですよ。でも私は初めからそうでしたから、こういうものなのかなと思って苦しいけど我慢して引いておりました。でもとっても天蚕はきれいで、世界じゅうの野蚕の中でこんな色はないんです。もう類はないです。茶色とか、黄色とか、それと輝きがすごくいいんですね。だからよく「絹のダイヤモンド」なんて言われますけれども、そんなもののとりこになって、大変ですけどこれからもずっとやってまいりたいと思います。
 下の会場にもう一つ、縦糸も横糸も天蚕で、茜で染めた絣の帯地がありますので、お時間ありましたらどうぞごらんになってください。
 もう一つ、私いつも思うんですけど、最後に申しますけど、織物というのは本当に素材が物を言います。素材づくりがいかに重要なファクターを持っているかというのはいつも思っております。私たちは多摩シルクライフ会員の望む糸づくりを行っておりますので、欲しい素材が手に入りますので、私にとってはすごく仕事がやりやすくなってみんなも喜んでいると思います。そんなところです。(拍手)

座長: どうもありがとうございました。ご質問はございませんでしょうか。
 ちょっとお伺いします。天蚕の染色というのは非常に難しいと皆さんおっしゃいますが、その辺の工夫はどうすればいいのかということと、もう一つは、私いつも感心するんですけど、井上さんは物すごいファンを持ってらして、個展の初日にほとんど売り切れちゃうというような盛況ぶりですけれども、その人気の秘密は何だとお思いになっていますか。ちょっと伺わせてください。

井上: 天蚕の染色ですけど、天蚕は染まらないもので染めが難しいとか言われていますけれども、染めてみたら染まるんですね。何でもないです、染まります、植物染料で。
 それから、後の質問は、私わかりません。ただ、織物をやって、個展は3年に一度、もう20年ぐらいやっておりますけれども、来てくださった方がまた来てくださったりして……。ちょっとわかりません。そんなところじゃないですか。それがずっと続いてきたということです。

座長: どうもありがとうございました。もう時間ですので、これで次の方にかわります。
 八王子の上柚木小学校の丸山先生です。私どもは生涯教育の一環として小学校の総合的学習に伺いまして協力させていただいておりますので、先生にその実践をお願いいたしました。どうぞよろしくお願いいたします。

小学校 総合的学習
カイコを飼育し、地域の方との協力で生糸とりをした活動
上柚木小学校 丸山美代子

丸山: 皆様こんにちは。上柚木小学校で3年生担任をしております丸山と申します。
 この会場に来て皆さんのお話を伺ったりいろいろな作品を見せていただく中で、製糸、染織、織物と本当に専門家の方々ばっかりで、いやあ、私は何と場違いなところへ来たんだろうという思いでいっぱいでございます。でも何でかなと考えましたら、いま境さんのほうから紹介していただいたんですが、多摩シルクライフの方々がすごくいろいろな取り組みをなさっているんですね。その中の一つに、子供たちにも目を向けてくださり、蚕を飼ったり、そこから糸をとったりするということを経験させてあげたいなと思ってくださいまして、いろいろ助けてくださったんです。そんな中で3年生の子供たちが蚕を育てるところから糸をとるところまで経験することができまして、とても喜んでいます。きょうも「先生、こういう会に行ってこういう話するんだよ」と言ったら、みんながワーッと喜んでくれまして、ぜひ話してきてねというような、そんなことできょうこの場に来ているような次第でございます。
 時間もありませんので簡単にお話をさせていただくんですが、取り組みのほうは、報告集の45ページ、46ページのほうに拙い文を書かせていただいております。
 私、八王子の上柚木小学校というところなんですけれども、この上柚木小学校というのは、多摩ニュータウンがずうっと八王子のほうまで広がってまいりまして、ちょうど10年ほど前にできた新しい町なんですね。ですから、周りは団地とかマンションのちょっとすてきな三角屋根の建物がある、そんな住宅ばかりの地域の中にある小学校なんです。
 ただし、小学校を一歩出ますと、北側のほうに大栗川というのが流れておりまして、大栗川のところの川岸を歩きますと桑の木がたくさんあります。ずうっと西のほうに目をやりますと鑓水というところがありまして、ここは昔、横浜のほうへ生糸を運んだと言われる絹の道というのがございます。絹の道資料館もありますし、それから通ったと言われる−−歩かれるととてもすてきなところですけれども、絹の道が今も残っているような、そんな環境の小学校なんです。
 ただし、10年前開校しまして、それぞれの地域から移り住んだ子供たちなものですから地域のことについてはほとんど知りませんし、地域についてのかかわりも薄いんじゃないかなと思っています。ですから、八王子の柚木地域で、その昔は本当に自然がいっぱいある中で農業をやられたり養蚕をやられていたと思うんですけれども、そういうものに関してはほとんど知られていない、子供たちも知らない、そんな状態です。
 私としましては、そういうような子供たちに養蚕についてとか絹糸についてとか織物なんかに興味、関心を持ってほしいなと思いまして、調べたり体験したりする中で、子供たちが地域のよさを実感してほしいなと。この地域でこんなことがあったんだ、そうなんだということを感じながら、蚕についても絹糸についても織物についても、いいものだなというのを感じたり、そういうものを守っていこうとしている方が地域にたくさんいらっしゃるんだ。そういう生き方を子供たちに伝えられたらいいなと思いまして取り組みをしております。
 取り組みは大きく分けますと3点あるんですけれども、1つ目は、蚕を育てなくちゃ始まらないなということで蚕を育てました。蚕を育てたことについて報告集のほうに載せてあります。時間もございませんので、詳しいところはまたお暇があれば目を通してください。例えば5月10日に蚕の卵が届くんです。それを見せました。子供たちはびっくりしまして、「このゴマ粒なんなの?」ということから始まりまして、それぞれこのような形で蚕を育てていくということになるんですけれども、書いてあるのは、子供たちのそのときそのときの反応です。子供たちはこんな形で反応しながら、自分たちで毎日、朝来ては「どうなったの」とか「こんな変化があるよ」と言いながら蚕を見ていきました。そうしますと、子供たち、蚕がどんどんかわいくなりまして、蚕に名前をつけて、何々ちゃんとか何々君とか、きょうも元気だねと言いながら、そのうち手に乗せまして、かわいい、かわいいというような形で蚕をかわいがりながら育てていきました。そんな形でずうっと行きまして、最終的に卵を産むところまでやりました。
 最後に子供たちは−交尾した後たくさんの卵を産んで子孫を残します。そして死んでしまいます。「僕は、『蚕の一生が終わったんだなと思いました』」。蚕を飼って3年1組は忙しくなりました。でも、よい経験ができたので蚕が来てよかったと思います。楽しかったです、というような形で子供たちが蚕を育てました。
 じゃ育てた結果を本にしようかということで子供たちにつくらせましたら、子供たちがそれぞれ1人1冊ずつ、こんな形で絵をかいたり、育てていくところの様子を書いたり、そのときそのときの文を自分なりに書いたりというような形で、こんなふうにして蚕の一生を本にまとめることができました。それぞれ子供たち自分の本を自分で持っていますので、厚さも違いますし、絵も違います。さまざまですけれども、1人1冊ずつ本をつくりまして、蚕とめぐり会えたというようなことがございました。
 2点目の実践ですけれども、地域に養蚕農家をやっている方がいらっしゃいますので、そこをお邪魔しまして−本当は子供を連れていきたいんです。でも全員連れていくことと交通の便というようなことがありましてかないませんで私たち担任が行きまして、写真を撮ったり話を聞いたりしてきたことを子供たちに伝えました。子供たちびっくりしまして、「ヘエー、そんなおじさんいるの」とかね。自分たちは箱で蚕を飼っていますので、これで間に合っているのが、蚕棚があるんだよとか、こんなふうにして飼っているんだよというのに本当にびっくりしまして、ああ、すごいんだねというようなことを子供たちは感じてくれました。私も実は長野県出身で、自分が子供のころには祖父母が養蚕をやっておりましたので、そんなときのことも思い出しながら、「お蚕様ってねえ……」という話をしまして、みんな大事にしていたんだよというようなことを子供たちに伝えました。
 それから、先ほどお話しすればよかったんですが、蚕を飼っているときにたまたま全校参観日がありまして、そのときに蚕を廊下に出しておいたんです。いろいろな方々がいらした中で、お父さんやお母さんだんだん若くなってきますので「この白い虫なあに?」ということになりまして、子供たちが「違うよ。これ、蚕だよ。お蚕さんって言うんだよ」という、そういう話を子供たちがしていたんですけれども、そんなふうにして、ちょこっとは地域の皆さんに蚕というのを知ってもらうことができたかなと思っております。
 最後に、3つ目の実践なんですけれども、これが多摩シルクの皆様にお世話になりまして、学校の家庭科室のほうに道具をいろいろ運んでいただき、わざわざお二人の方に来ていただいて、子供たちが育てつくった繭から糸をとるということを経験させていただきました。子供たちにすれば、自分がまず育ててきた蚕にびっくりし、繭をつくることにびっくりしますよね。「まだやっているの」といううちに、だんだん一晩、二晩かけて繭ができていくのを見て、「まだ透き通っているよ。だんだん繭になってきたね。姿が見えなくなってきたね」というようなことを経験しています。
 さて、これが今度はお湯の中に入れられますと、「かわいそう、死んじゃうよ」という子がいたり、「一体どうなるの」というふうな反応を子供たちはするんです。そういう中から糸が取り出されて、そして糸を巻いていく。子供たち一人一人に1つの繭から1本の糸を巻く作業をさせたんです。こんな形で1人が巻いていくんです。繭からトコトコ巻いていきます。授業の時間では巻き切れずに、宿題だよということで、うちへ帰っても巻いた。こんな手作業を子供たちは経験をしました。
 それから、持ってきていただきました糸車で、こちらのほうは、コトコト糸車を回すという作業をして、糸とりを子供たちに順番にさせていただいたんです。そんな経験をしましてでき上がったのをいただいたんですけれども、自分たちのものがこんなふうになったよということで子供たちはとても感動し、喜んでおります。
 私が話をしてもなかなか子供たちの気持ちって伝わりませんので、子供たちが書いた「多摩シルクのおばさんたちへ」ということでお手紙がございます。「おばさん」なんて言っちゃ申しわけないですね。子供たちから見たらおばさんなんですね。来ていただいた方にこんな気持ちで子供たちは感謝しております。
 「9月27日の繭取り楽しかったです。あと、感じたことがありました。それは昔の人は、こんなに大変なのに、こんなことをしていたんだなあと思いました。そして私は家に帰ってからやってみました。そしてグルグルと巻いていたら、ぐんぐん蚕のサナギが出てきました。それからずっとやっているとまた見えてくるので、最初は疲れて余りやる気が出なかったけど、そのとき、やるぞとやる気が出ました。そんな体験ができてとてもうれしかったです。それに今までやったことのないことで、巻き終わった繭は大切な宝物になりました。お母さんも『よかったね』と言っていました。本当にありがとうございました。これからも頑張ってください。」
 あと2人だけ読ませてください。男の子です。
 「9月27日の糸とり楽しかったです。僕は、繭の糸とりをするのが初めてでした。こんなに1本が細いなんて知らなかったです。さらに伸びたりもしましたけど、そんなのもよりをしたらかたくなりました。いろいろなことを教えてくれてありがとうございます。これからも頑張ってください。」
 次は、女の子です。
 「私は、糸とりを教えてもらって、すごく、すごくうれしかったです。なぜかというと、初めてやっていろんなこと感じたからです。私は、またやりたいなあと心の中から思いました。糸とりを教えてくれてありがとうございます。繭の糸とりなんか初めてで、最初は何が何だか全然わかりませんでした。でも、ゆでているところを見ていてだんだんわかってきました。糸はすごく細くて切れそうでした。繭の糸とりは宿題になりました。家で7時から11時までやっていました。『まだ切れないのかな』と言っていたら、お母さんが『蚕はそれだけ頑張って糸をいっぱい吐いたんだよ』と言っていました。でも、できたときはすごくうれしかったです。いっぱい教えてくれてありがとうございます。これからも頑張ってください。最後に、すごーく、すごく楽しい1日でした。また会えるといいなと思います。」というような子供たちの感想です。
 だから、子供たちにとってはすごくすてきな経験をさせていただけてありがたかったなと思っています。これからもこんな形で地域の方とかかわることができると、学校だけではできない、また私一人ではとてもできない、そんなことを子供たちにさせてあげることができますし、そしてまた、子供たちの中に地域の方々の生き方みたいなことを少しでも伝えられることができたらいいなという願いを持っていますので、これからもお世話になると思いますけれども、ぜひ皆さんからいろいろ教わりながら小学校でもできることがあったらちょっとやってみたいなと思っているような、そんな私の気持ちをお伝えしまして、拙い報告で大変申しわけないんですが、報告を終わらせていただきます。どうも失礼いたしました。(拍手)

座長: どうもありがとうございました。どなたかご質問ございませんか。

会場: 2点教えてください。まず、土、日に作業していくという場合はどういうふうにされているのか。つまり、お子さんに家庭まで持っていきなさいと飼育をさせているのかどうかというのが第1点。
 それから一番大きな問題だと思うんですけど、例えば子供が2頭なり3頭なり自分のうちに持って帰っていった場合、クラスは何名いらっしゃるかわかりませんけど、中には死にますよね、そうした場合にどう教えるのか。端的に言うと、蚕が死んじゃったために親が奔走する。あっち行ってこっち行って、どこか同じ蚕がいませんかと、実は私どもそういう問い合わせが物すごい多くて、この場合どうやって教えているのか。この2点ちょっと教えていただければ……。

丸山: ありがとうございます。1点目ですけれども、2通りやりました。持って帰れるといいましても、桑の葉を手に入れることのできない子供たちは大変なことがありますので、自分で桑の葉が手に入るし、持って帰って大丈夫だよ、おうちの人もいいよと言っている子に関しては、持って帰ってもいいよということで持ち帰らせることをしました。ただし、全員に1匹ずつだよという形で持ち帰ることはさせないで、あとは私の家に持ち帰りまして、うちで世話をして、私がまた朝「こうなったよ」と持ってくる、というような形でやりました。
 そんな中で、2点目の質問で、もし死んじゃったときどうするのかということですけれども、確かにそういう事例も、ことしはなかったんですけれども、以前に飼ったときにあったんですね。子供が「先生、死んじゃったよー」と本当に悲しそうな顔をして持ってきたんです。そのときに、「しようがないんだよ。一生懸命お世話をしてくれたし一生懸命やってくれたんだけれども死んじゃったんだから、それはしようがないよ」ということをその子にも言いましたし、クラスのみんなに話をして、「命って、一生懸命やってもこういうふうにして病気になって死んじゃったりとか、残念ながら育たないこともあるんだよ」という話をしまして、だから逆に、いろいろなことがある中で蚕も生きていくし、いろいろな生き物の話もしたりとか……。学校ではほかにもいろんな生き物を飼ったり、世話をしたりしています。そういう中で死んじゃうこともありますし、それから植物もうまく育たないこともありますので、そういうようなことのたびに、「一生懸命やった、でもだめだったということはあっても、その人を責めなくてもいいんだよ。そういうことが自然界の中にはいろいろあるんだよ。だからこそ、いろいろな命というものを私たちは大事にしていかなくちゃいけないね」みたいな形での話しかけということを、蚕だけじゃなくて全体のいろいろな教育活動を通しながら自分ではやっているつもりなんです。
 ですから家から電話が来たようなときには、「気にしなくていいですよ。こういうふうに話しますからね」というような形でおうちの方にお話をしたり、飼っていく中でのいろいろな流れをおうちの方にお便りなどで知らせながら行っていますので、それでもめるということはほとんどなかったように思うんですけれども、確かに子供がそういうことで心を痛めるようなこともあります。でもそれが事実なんだし、隠すことじゃないし、そういう中で学んでほしいなと思っています。

座長: どうもありがとうございました。
 八王子郷土資料館の学芸員でいらっしゃいます神かほりさんです。どうぞよろしくお願いいたします。

繭から織物を作ろう
〜八王子市郷土資料館の夏休み体験学習〜
八王子市郷土資料館 神かほり

神: よろしくお願いいたします。
 八王子市郷土資料館の神と申します。ここでは、本館で行っている「繭から織物を作ろう」という子ども向けの体験プログラムについてお話したいと思います。よろしくお願いいたします。
八王子市郷土資料館の機織り体験:
 ご存知のとおり、八王子の周辺では昔から養蚕や織物が盛んでした。本館でもそのような歴史を紹介する展示をしており、関連する催物も行っています。たとえば、常設展示コーナーに昔の手織り用の高機を展示していますが、そのうち2台は体験用で、どなたでもはた織りの体験ができるようにしています。特にその1台は、明治34年の大変古い織機で、実際に昔八王子の織物工場で使われていたものを数年前に復元しました。これにシルク100%の糸をかけ、昔の絹織物の雰囲気を体験してもらおうとやっています。
 こういうことをしていると、八王子という土地柄の奥深さがわかることがあります。他の地方の博物館では、「古いはた織り機は出てきたけれど、糸をかける人がいなくて困っている」という話をよく聞きます。ところが、八王子でこのような体験はた織りをしていると、見ず知らずの方から「私が糸をかけてあげましょうか」と声をかけてもらったり、そのような方があっという間に切れたたて糸を直してくださったりしたこともありました。さすが八王子、織物の町だなあと感心した覚えがあります。一方で、若い方やニュータウンの新住民は桑も見たことがないし、織物なんて鶴の恩返しの世界だという人の方が多いということもあります。これもまた、この町の奥深さではないかと思います。
「繭から織物を作ろう」の開催まで
 常設展の体験コーナーの織物は、かなり太い糸を使った平織りなので、それほど難しいものではありません。ところが、体験はた織りをした小学生が「簡単だった」などと言いながら帰っていったりするのを見ると、果たしてこれでいいのかと疑問に思うこともありました。体験でやっているよこ糸を通す作業は「織物」の工程のほんの一部であって、本当に難しいのは、糸の準備から整経・機ごしらえなど織る前の準備であり、これがわからないと本当には織りのしくみはわかりません。これを何とか体験学習に盛り込めないかと考えたのです。
 八王子の小学校では、授業で蚕の飼育をするところも多いようですが、蚕が作った繭がどうやって織物になるのかというところまでは、小学校ではなかなかできません。郷土資料館へ来れば、織りは体験できます。ところが、その間の作業、つまり繭から糸をつむいで、たて糸とよこ糸を順番にそろえて織れるようにするまでを体験できるところはほとんどありません。そこで、「繭」までを知っている子どもたちと、「織り」からを体験できる郷土資料館との間を埋める作業を、夏の子ども向けのイベントでできないかと思ったのです。具体的には、繭から糸をつむいで簡単な織物をつくることにより、蚕から織物までを結びつける体験学習です。これが「繭から織物を作ろう」の発端となりました。
 これまでも、郷土資料館では「多摩シルクライフ21研究会」の指導を受けながら、子ども向けの糸取り体験や真綿づくりのワークショップなどをしてきました。そこで、昨年度から、多摩シルクの皆さんに相談して、繭から織物を作る講座を行いました。このときは、作品や織機の設計から材料の準備、当日の講師までやっていただきました。
 「今年は自力でやってみたら」との勧めもあり、今年度は職員とボランティアが昨年のノウハウを元に織機や材料の準備をし、繭の準備以外は一からやってみることになりました。館のガイドボランティアの方々と共に、煮繭後の蛹取りや事前講習会などを重ねました。
準備
 一日で作れる織物は、コースター程度が限度です。これに合わせてどんな織機を使うか決めていきます。昨年は、ベニヤ板を使った本格的な織り機を作っていただいたのですが、より簡単に作れるように縦21p・横15pのダンボールに切れ込みを入れただけの「ダンボール織り機」にしました。その代わり「織りのしくみを知ってもらう」という当初の目的にこだわって、綾棒や杼を使った構造で織ることにしました。綾棒はイラスト用のボードを切って2本作り、杼は板目紙2枚をセロテープで合わせて1枚作りました。最初から毛糸針でよこ糸を通せば綾棒も杼も不要ですが、あえて本格的な構造にこだわったのです。その結果、小さい子どもたちには少し難しかったようです。
 準備の段階でもう一つ大きな工夫をした点は、あらかじめ繭を染めて3色の繭を作っておいたことです。たて糸に糸を通す順番を間違えないように、オレンジの繭と白の繭でたて糸をつくり、交互に黄色のよこ糸を通すという仕組みにしました。色を変えることによって「偶数番号のたて糸に横糸をくぐらせます」という代わりに「オレンジの糸を黄色の糸で拾います」というふうに、とても分かりやすく指導できるからです。ただし、染めるには事前に蛹の処理をしなければならなかったので、準備に手間がかかり、また子どもたちに蛹に触れる体験をさせられなかったのは残念でした。
コースター作り
 いよいよ当日です。参加する子どもたち1人に1つの「織り機セット」と、コースター1枚をつくるために必要な玉繭約9個(たて糸用オレンジ3個・白3個、よこ糸用黄色3個)を渡します。
 まずは糸づくりから行います。2通りの方法で糸をつくります。今回はたて糸を「ずりだし」と呼ばれる、繭を直接ひきのばしながら撚りをかけていくやり方でモロ撚りにしました。よこ糸は2人組で真綿を引き伸ばす方法で紡いでみました(図参照)。糸をつむぐ工程は、糸・繊維を理解するために大切なので、比較的時間をかけてやりました。できた糸にはゼラチン液で糊付けをして乾かしておきます。織るときに糸同士が絡んだりもつれたりしづらくするためです。ゼラチン液の濃度は1%で少し濃い目ですが、子どもたちが少しでも織りやすいようにしました。
 糸ができたら、ダンボール織り機にたて糸をかけます。たて糸用のオレンジと白の糸を組にして合わせてもち、織り機の両端に入れた切れ込みに一緒にかけていきます。
 たて糸をかけ終えたらよこ糸を通します。黄色のよこ糸を杼に巻いて、綾棒の間をくぐらせて交互によこ糸を入れていきます。杼が入らなくなったら毛糸針に替えて最後まで糸を通します。糸が通ったらたて糸の端を外して切り、隣同士の糸を結んで房を作って完成です。
ガイドボランティアの活躍
 担当職員が2名しかいないところで、ボランティアの方々が準備から協力してくださったことは非常に大きかったです。小学生には少し高度と思われる内容で、集中力が続かなかったり中には飽きてしまう子どもたちもいた中で、細かい作業を個別に指導したり、時には励ましたりなだめたりもしながら、熱心に指導していただきました。職員もそうですが、ボランティアの方々もこれに携わるまでは繭に触ったことすらあまりない方々でした。子どもたちに指導できるようになるまで、ずいぶんがんばったつもりです。そういう意味でもこの講座を通して「織り」への関心や理解を広めることにつながったような気がします。
今後の課題
 「蚕から織物までを結びつける」ことを目して始めた体験学習ですが、やはり手間のかかることでもあって、一度に20組程度しか対象にできないことはジレンマではあります。今回は応募も少なく、まだまだ織物というと難しいものというイメージが強いのではないかと思います。気軽に参加していただくためにはどうしたらいいか、ということも課題です。
 子どもには少し難しい内容だったかもしれないと言いましたが、逆に大人の方からもやってみたいという声があり、今後は大人向けの講座としても展開できると思います。
 ここでは「繭から織物を作ろう」という八王子市郷土資料館の体験学習講座について紹介してきましたが、これ以外にも繭やシルク、織物全般にわたるさまざまなプログラムの可能性があると思います。これからも色々なことにチャレンジしてみたいと思っています。
 最後になりましたが、まったくの素人である私たちがこうした講座を開催できたことは、すべて多摩シルクライフ21研究会の皆さんのご指導のおかげです。この場を借りて厚く御礼申しあげます。ご清聴ありがとうございました。(拍手)

座長: どうもありがとうございました。ちょっと時間が迫っておりますので、もしご質問のある方は直接神さんのほうにお話いただきたいと思っております。本当に申しわけございません。ありがとうございました。
 次は、年光郁子さんでいらっしゃいます。養蚕農家応援団、何か楽しそうなテーマです。伺わせていただきます。どうぞ。

養蚕農家応援団
−絹に出会う−
八王子市 年光郁子

年光: はじめまして。「年光」と書きまして「としみつ」と申します。よろしくお願いいたします。
 レジュメの52ページから私のお話の中身を大体書かせていただきましたので、この中身については余り詳しくお話をしないで、後でゆっくり読んでいただければと思います。
 私が育ちましたのは東京の中野で、結婚してから十数年は、関西の甲子園球場で有名な西宮におりました。主人の転勤で東京に戻ってきましたときに、ちょうどバブルの始まりで世の中がザワザワし始めた頃でした。その頃、ちょっとご縁があって、長野県の白馬村のもっと奥の小谷村というところに子供たちを山村留学にお預けいたしまして、毎月のように長野に通いました。そのおかげで、自分の中に眠っていた自然ですとか、暮らしの大切さというものをとても身にしみて、東京に戻ってきたんですね。戻ってきて、どこに住もうかしらと、さんざん迷いましたけれども、その時に3人の子供を育てるには、自然が豊かにある、心が豊かに育つ土地をと思いまして、たまたま八王子というところに居を構えました。
 ただ、その頃、八王子は「桑の都八王子」という言葉だけがひとり歩きをしているような時代でして、桑もなかなかございませんし、きのう、今日といろんな先生方がお話しなさったように、養蚕を初めとして絹に関係する方は本当に少なくなっている時でございました。
 そういう中で、多摩丘陵のひだひだの中に新しく開発されましたニュータウンに住み始めたんです。そのときに何と、私は運命的な出会いをすることができたんです。その出会いというのは、秋川支所で小此木先生たちがシルクライフの活動を始められて、「糸引きと繭から糸を紡ぐという講座を開きます」という、本当にもう見落としてしまうような小さな記事に出会ったんですね。それに出会いませんでしたら、私は一介のただの何もない主婦でございましたので、ここにこうやって立つこともなかったかなと思っております。ですから、それは本当に“運命の出会い”とも言えるものでした。
 少しは自然の恵みということに心を開かれておりましたので、八王子市が行っていらっしゃいました援農のボランティアをして、農家の方とのご縁はそれまでございましたけれども、本当に勉強不足だなと思いましたが、八王子にまだ現役の養蚕農家がいらっしゃることすら知らずに10年近くを過ごしていたんですね。
 そのときに絹と出会ったことは本当にすばらしいことでしたけれども、私にとって一番のすてきな出会いは、実はこの席の中にいらっしゃるんですが、きのうもパネルディスカッションでお話をなさいました現役の養蚕農家の長田さん一家との出会いでした。これがなければ、多分10年近く、もっと前から心の中にあった自然とかそういうものに出会うことはなかったような気がするぐらい、運命の出会いを感じています。
 シルクライフ21というのがスタートなさったのが実は私がシルクライフ21に出会うほんの少し前だったということをつい最近伺いまして、これもまた随分運命的な出会いだったかしらと思っています。そのシルクライフ21で、実はここに山のように積み上がって見ていただきたいものがあるんですが、初めて出会ったのが“真綿”の感触だったんですね。それから、ここに並んでいるもの、どこかで見たことあるなという方、多分昔見たことあるなとおっしゃる方もいらっしゃると思うんですが、こうやってカラカラと回して糸を紡ぐ“座繰り”というものなんですね。ちょっと古いので音がやかましいですけど、こういうものに出会ったのも、シルクライフに出会って、長田さんという養蚕農家に出会って、そうしてこういう繭に出会うことができたからだと思うんです。ちなみに、この一台は小谷村の方がわざわざ譲ってくださったものです。
 シルクライフに出会ったのはちょうど8年ぐらい前でしたけれども、それからの年月というのは、私の大事な、共に歩いた友達との試行錯誤の毎日でした。何しろ専門家ではありませんし、シルクライフの方に、繭はこうやって煮るんです、紡ぐときはこうやってするのよと丁寧に教えていただきましたけれども、その後は全部自分達の実践、というのが私たちに投げかけられた課題でしたので、一からどうやって紡ぐんだろう、どうやって煮るんだろう、最初はもう真綿を煮ることすらなかなかうまくいきませんでした。しかも長田さんにお手伝いに行っているときに出会った繭は、私たちにとってはシルクはとても大切なものでしたので、出荷なさる繭をいただこうという気持ちにはなれなかったんですね。それで出荷できない「はじき」と呼ばれている繭を少しだけ分けていただいて、「昔の女の人は、それを丁寧に丁寧に真綿にしたり糸を紡いだりして着物に織っていたんだよ」というお話を聞いたときに、「あ、私が絹と出会うのはそこかもしれない」と思いましたので、西島さんご夫妻と、ああでもない、こうでもないと言って、こうやって煮るとこんな真綿、こうやって引くとこんな糸ね、こうやって染めるとこんな色ね、というのを積み上げながら今日に至りました。
 これを見ていただきたいんですけど、こういうのを多分ごらんになったこと……。「こんなのに似たのは見たことあるな」とおっしゃると思うんですが、多分これは世界にそうないものかしらと思います。これは座繰りで引いた糸を「小枠」というものに巻き取りまして、もう一度巻き直してから糸を「かせにする」と言うんですけど、見たことおありでしょうか、輪にするんですね。そのときに使う道具として、何と西島さんのご主人が試行錯誤を重ねながらつくってくださったものなんです。ですからこれは市販されておりません。
 これのとてもすてきなところは、素人が使うので……。糸って巻くときにこうやってふりをつけて、「綾をとる」と言うんですけど、そうして巻いておかないと後で処理が大変なんですね。それを手でやっていますと、こっちが廻せないんですね、素人ですので。何とここにモーターをつけていただきました。モーターをつけることによって、ここが廻るます。廻るのに加えてとてもうれしいことは、前に来て見ていただくとわかるんですけど、ここにカウンターがついているんですね。このカウンターをつけていただくことによって、廻るとここと連動してこのカウンターが、普通の市販の計算機がついているんですけれども、1回廻るごとに1というふうにカウントをしてくれるんです。
 これを見たとき、私はとてもすてきなお仲間がいると思って感動してしまったんですが、こういうふうにお道具をつくるのも、昔からあるお道具を生かしながら、私たちみたいな素人が絹をどうやって糸にするかについて協力してくださる方が、多摩シルクの中にはたくさん専門家がいらして、それはとてもうれしいことでした。困ったときには、こちらにいらっしゃる境さんを初めとして、「お願い、こんなことが困っている」というふうにお電話をする場があるというのは私たち素人にはとても心強くて、昨日、今日といらした専門家も本当にそういう意味では力になってらっしゃるんではないかなと思っています。
 じゃ、その後、私たちは何をしたかの話を少ししたいと思います。真綿から糸を紡いで座繰りで糸をとっても、その先がわかりませんでした。ただきれいに染まった糸が家に下がっているだけで幸せという時代もあったんですね。多分それは「何だ、そんな趣味の世界なんだ」と思われる方がご専門の方の中には多いかと思いますが、普通に暮らしている人間にとって、絹糸の輝きですとか真綿のやわらかさというのはとても心を和ませてくれるものだったんですね。いつかは必ずこの糸で何かすてきなものをつくりたい、それがまた一つの希望にもなりました。その間、出会った方々の中には本格的に染め、織りを」なさる方もたくさんいらっしゃいます。
 今お席に真綿が回っております。さわったことない人はどうぞおとりになってください。ごらんにならないで、どうぞとっていただきたいんです。何でとっていただきたいと申し上げたかというと、これは桜で染めた真綿なんですが、この手触りをじっくりと味わっていただきたいのです。
あるご縁で、お年寄りが通われるデイホームに時々ボランティアで伺い、草木染めの本当に初歩の初歩をお教えしたりしたことがあるんです。そのとき必ず真綿を持っていくようにしました。そしてお年寄りの方にさわっていただいて、「これ、真綿ですよね。覚えてらっしゃいますか」と言うと、本当にもう普段口を聞いてくださらないようなお爺さんが、突然、「僕のうちはね、昔は養蚕をやっていてね」と話してくださるんですね。それから「私の里は結城で、結城紬を織っていたよ」、おばあちゃんが織っていたとかいうお話がどんどん出てきまして、私にとってはそれがとても宝物になりました。八王子から津久井にかけては、それだけ絹に関わって暮らしていた方々が多かった、ということですね。
 ですから、さっきのお話で、お子さんのために学校ですとかいろんなところで体験をするという活動をとっても積極的にしていただいて、それはうれしいことで頼もしいことだけれども、お年寄りの方に何かをしていただくこともぜひ皆さんに発案していただけたらうれしいなと思います。
 「あんたがやればいいじゃないの」というお声が聞こえそうなんですが、実は私今仕事を始めてしまいまして、なかなか時間が思うようにいきません。今ちょっと似合わない着物をきょうは思い切って、着てまいりましたが、昔々、私の母の実家は、北陸の小さな町で呉服屋をしていたようなんですね。小さいころに「番頭さんと丁稚さんがいてね」という話はかすかに聞かされた覚えはあったんですが、大きくなるまで着物の「き」の字もほとんど私の暮らしの中にはなかったんです。母や父は、家にいますと着物を必ず着ておりました。ああ、そうだ、そうだったなというのを、今になって、こういう絹とか真綿をさわることによって思い出させてもらえたんですね。
 娘が「お母さんのDNAが目覚めたんじゃないの」と申しましたけれども、何と、着物を着る生活を皆さんに提案する仕事に携わることになってしまったのですから、びっくりです。それで、今日は思い切って着物姿で参りました。これは皆さんご存じと思いますけれども大島紬。紬と言いますけど実はこれは引き糸です。真綿から紡いだ糸では残念ながら織ってありません。実は、この帯を見ていただきたいんです。真綿で紡いだものでできているので私はこの帯を見ていただきたかったのです。後でぜひさわってみてください。
 この真綿の指先から伝わる感触というのは、信州大学の先生でしたかしら、“α波”がとてもたくさん出るという研究発表をなさっているそうです。そのα波の出方は、優しい赤ちゃんのほっぺをさわるよりもっといいα波が出るんだそうなので、皆さんも真綿をさわる機会がありましたらぜひさわってみてください。
 最後になりましたけれども、私にとって養蚕農家と出会ったということが八王子に住んで本当に幸せだったと思った一つでした。目の前に養蚕農家の長田さんのお母様がいらしていますけれども、もう家族のようにおつき合いをさせていただいております。自分の暮らしの中に、八王子はこんなに大きな町になりましたけれどもまだ農業があって暮らしていらっしゃる方があって、すてきな繭が生み続けられているんだということを、もっと八王子の市民の方にわかっていただきたいと思っています。周りの方は「あ、昔はそうだったんだね」という過去のお話をなさるんですね。でも現役で養蚕をしてらっしゃる方があるんだということ。若い後継ぎの将来を考えながら、真剣に取り組んでいるのだということを。
 それから、養蚕を私達は6月と9月にお手伝いに行きます。それにはとても人手が必要なんですが、なかなか日にちが決まらないということで人手を確保することが難しいんです。ですからもし本当に養蚕にかかわってみたいと思われる方がありましたら、長田さんにお声をかけてください。私は友達から「あなたって、いろんな方と人を出会わせるのに向いているね」とよく言っていただくんですが、会場の入り口のところに長田家のすてきなお嫁さん達、出会ったお仲間達ががいろんな展示と実演をしてらっしゃいます。彼女とある五日市で織りをやってらっしゃる織りの専門家の方と出会っていただいたのも、「ねえねえ、あそこにすてきな人がいるんだけど、長田さん繭つくってると言ったらぜひ見たいと言われたから行ってみない?」とお声をかけたのが始まりだったような気がします。ですから、今きょうここにいらっしゃる方にお願いですが、お手伝いをしてみたいと思われる方、それから私も織ってみたい染めてみたいと思われる方があったら、ぜひお声をおかけください。日本の絹を生み出す力、文化を、是非残したいと思います。
 時間が超えまして失礼いたしました。ありがとうございます。(拍手)

座長: どうもありがとうございました。時間が迫りましたので、質問を受けることができませんのが本当に残念ですが、これで終わりにさせていただきたいと思います。本当に長い時間ありがとうございました。年光さん、どうもありがとうございました。(拍手)

司会: どうもありがとうございました。 以上をもちまして、この会場でのシルク・サミットの行事すべて終了いたしました。きのう、きょうと2日間にわたりまして250名の大変多くの皆様にご参加いただきましてこのように盛大にシルク・サミットが開催できましたこと、本当に厚く御礼を申し上げます。
 来年は、長野県の駒ヶ根にございます駒ヶ根シルクミュージアムでちょうどこの時期に開催をしたいと思っておりますので、皆様にはこの時期になりましたらご通知を申し上げたいと思います。ぜひまたご参加していただければありがたいと思います。
 なお、これから見学会に入るわけですけれども、この後、エレベーターのところへ参加される方はお集まりいただきまして、Aコース、Bコース、そしてそのときにお弁当を皆様にお配りいたします。それを持って、地図を書いてありますので、地図に従って集合場所へ行っていただきたいと思います。
 最後になりましたが、共催をしていただきました八王子市初め、協賛団体、後援団体のおかげでこのようにすばらしいサミットを開催することができました。この場をおかりいたしまして厚く御礼を申し上げます。
 それでは、お帰りの節はお気をつけて……。また11階、ホワイエには4時まで展示会を行っておりますので、どうぞごらんになっていただきたいと思います。どうもありがとうございました。(拍手)


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