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Subject: [silkmail:38] 上毛新聞「繭の記憶」(9) <Chikayoshi Kitamura > 2001/11/02

第2部「残照」−9−森山学校
 桐生市東町にある「近代織物発祥の地」、ノコギリ屋根の旧織物工場が残る敷地内に見
上げるほどの碑がある。機織りで成功した森山芳右衛門、芳平父子の「顕彰碑」。……桐
生で機織りを始めた父芳右衛門、その後を継いだ芳平は高い織物技術を持っていた。うわ
さを聞きつけた大勢の伝習生が全国から父子の元に集まった。碑は父子の教えを受けて郷
里に戻った者が、後年その献身的な指導に感謝し贈った。北は秋田から南は熊本まで、そ
の数はざっと170人。森山家は機織りを養成した専門学校でもあった。
 「西の西陣、東の桐生」と言われるほど桐生を織都に押し上げたのが輸出用「羽二重(は
ぶたえ)」の開発。生糸の持つ光沢、柔らかい肌触りの純白の絹布は、欧米でもてはやされ
た。桐生は明治10年代から輸出を始め、20年代には本格化させた。横浜港の輪出商品別順
位を見ると、羽二重はこのころから1位の生糸に次ぐ地位に上り詰める。当初、桐生がそ
の大半を独占していた。しかし、それはわずか10年ほど。新興の織物産地が羽二重に目を
つけ、技術導入を図った。中でも熱心だったのが福井県。講師派遣を要請された芳平はま
な弟子の高力直寛を派遣し、指導に当たらせた。それから数年。福井は生産をぐんぐん伸
ばし、「本家桐生」をあっという間に追い越してしまう。産地を潤わせた技術をなぜ他産
地に教えてしまったのだろう。芳平の孫で桐生地域地場産業振興センター専務理事など繊
維関係に長く身を置いた森山亨さん(69)=桐生市堤町=は言う。「祖父は富国論を唱えた
福沢諭吉に私淑し、それに基づいて行動したのでしょうね」。明治政府が目指した富国強
兵。それに必要な外貨獲得を羽二重は担った。そのためには桐生だけでなく、いろいろな
土地で機業を興させることが、国を富ませると考えたというのだ。
 羽二重を取られたといっても、桐生が意気消沈したわけではない。外国からジャカード
機、ドビー機といった最新の織物機械を輸入、常に新しい知識、技術の吸収を試み、新し
い織物を追求した。「いろいろな業種がより美しいもの、より良いものを生み出そうとし
ていた。進取の精神。それが桐生織物の最大の特徴だ」。桐生織物協同組合理事長の佐藤
富三さん(74)=桐生市天神町=はこう言って胸を張る。お召、銘仙、羽二重、帯地、どん
す、ちりめん、りんず。桐生は洗練された多種多様の織物を次々と生み出し、その力が桐
生を近代工業都市へ導いた。……一方「芳平がまいた種は全国で花開き、日本は富国に向
かって突き進んだ。顕彰碑にはエピソードがある。建立発起人の高力直寛は、内緒で準備
を進めた。芳平の性格から「そんなつもりで教えたのではない」と反対されると考えたか
らだ。完成後、予想通り芳平は「穴を掘って埋める」と激怒した。すったもんだした揚げ
句、家の裏庭に建てることになったが、周囲にヒノキを植えて碑を隠してしまったという。
しかし、芳平は弟子たちの熱い想いに感激していた。そして碑のかたわらにヤブツバキを
植えた。いま、ヒノキは切られ、ヤブツバキは近づく春を待って赤いつぼみを膨らませて
いる。
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第2部「残照」−10−巨大工場
 壮大な工場の外観が描かれた絵図を佐羽(さば)秀夫さん(74)=桐生市堤町=が見せてく
れた。……「日本織物株式会社」。明治半ば、桐生に誕生した織物工場である。時代は
「桐生」が輸出羽二重で世界のメジャーに踊り出たころ。この会社設立の中心にあったの
が佐羽家だった。……佐羽家は織物生産者と大消費地の問屋をつなぐ「買い継ぎ商」とし
て江戸以降、台頭した。その財力は上州三大富豪「一佐羽、二加部、三鈴木」とうたわれ、
日本でも常に長者番付の上位に名を連ねた。単なる織物の仲介にとどまらす、色、柄、織
り方から価格まで、消費者の動向をつかみ生産者に伝えた。時代をとらえ、産地の利益を
生み出す役割を演じていたのだ。
 その佐羽家当主、吉右衛門は明治初めに渡米し、米国で機械織機の威力を見せつけられ
る。その後も海外視察を繰り返した佐羽が出した答え、それが巨大工場の建設だった。設
立趣意書には「わが国の良質の生糸、工賃の安さに外国が着眼、進出しようとしている。
外国に利益を吸収される。機業家が黙って見過ごしていいはずがない」とある。
 それから3年の歳月をかけて1890(明治23)年、近代機械工場が稼働する。総工費50万円。
明治初めに国が建設した富岡製糸場の2倍強。民間としては空前の大工場だ。敷地面積6
万3千平方メートル、力織機150台の動力源は日本初の水力発電でまかない、「撚糸、染色、
製織、仕上げ」という4工程を一貫製造した。当初、500人の職人が昼夜操業で「織姫しゅ
す」を生産。国内に出回っていた中国特産の「南京しゅす」をわずか数年で駆逐した。そ
んな勢いは長く続かなかった。最大の出資元の佐羽家が過剰投資に耐えきれずに倒産、陣
頭指揮をしていた佐羽喜六が中国出張中に不慮の事故死を遂げる。こうした不幸が重なり、
会社はわずか12年で解散。栄華を誇った「佐羽」も巨大工場とともに明治後半に桐生から
消えた。喜六には6人の子供かあったが、別々の場所に引き取られた。喜六の孫にあたる
秀夫さんは神戸市で生まれ、戦前、親せきを頼って桐生に戻った。群馬大学工学部を卒業
した秀夫さんは、戦争中の織機供出で大打撃を受けた桐生織物に強いショックを受ける。
大手繊維メーカーの誘いを断って桐生に残り、織機の開発製造に当たった。「大それた、
と言われるかも知れないが、先祖がお世話になった桐生に何か恩返ししたかったんだ」
 「外国勢力の進出を防ぎ、国の利益を守る」という気概で造られた日本織物。その痕跡
は「織姫神社」「発電所跡」など桐生市役所周辺にわずかに残るだけ。往時をしのぶこと
はできない。しかし、「官に頼らず民間の力で、時代の風を読み、新しい時代を開拓しよ
うとする精神は、いまも引き継がれていますよ」。桐生にある国の出先機関に長く勤め、
桐生識物にかかわった高橋和夫さん(64)=太田市西長岡町=は自信を持って言い切る。ど
んな難しい時代でも、常に新しいものを求めて突き進んだ力。街にはいまも、活路を求め
て模索した先人の精神が脈々と流れている。(第2部おわり)
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Chikayoshi Kitamura (NIAS/MAFF) kitamura@affrc.go.jp