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プレスリリース
平成15年4月23日
独立行政法人 農業生物資源研究所




水で戻すと生き返る動物組織

− 昆虫の不思議な生命現象の解明 −

【要約】
  アフリカに棲むネムリユスリカは、乾燥した状態で何年も生き延びる不思議な昆虫である。我々は、このネムリユスリカの乾燥休眠の謎解きに挑戦し、高等生物の細胞・組織が自律的に乾燥休眠し得ることを発見した。すなわち、ネムリユスリカの乾燥休眠は糖類の爆発的合成・蓄積によって可能となっていること、休眠には48時間以上の準備期間が必要なこと、さらに、この休眠の準備には脳などの中枢が関与していないことを明らかにした。
  農業生物資源研究所では、人類に残された新たな資源として昆虫機能を活用する研究に取り組んでいる。本成果も、動物臓器の長期保存技術への応用など、昆虫研究が人類の未来に貢献する知見の例として将来の活用が期待される。

【背景とねらい】

  1. 乾燥状態に120年間置かれたコケの標本を水に入れたらワムシや線虫が蘇生し現れたなど、条件によっては永久的休眠(クリプトビオシス*1)をする生物が存在することについては知られている。しかし、脳、神経、消化器官、循環器官等を備えた高等生物が、永久的休眠現象を持つことはあまり知られていない。
  2. アフリカ大陸には岩盤の窪みなどに溜まった小さな水たまりに生息する奇妙な生活史を持ったユスリカ*2)(蚊の仲間ではあるが成虫は吸血しない。和名はネムリユスリカ、学名は Polypedilum vanderplanki )がいる(図1、2)。乾季に水たまりが干上がるとユスリカ幼虫も完全に脱水し乾燥してしまう(図3)。しかし雨季になり、水がたまると、乾燥していた幼虫は吸水して再び発育を開始する(図4-A)。乾燥状態の休眠ユスリカ幼虫が17年後、水の中で蘇生したという記録が残っている。また乾燥幼虫は、-270℃の低温や100℃の高温に対しても耐性を持つ。
  3. このユスリカの乾燥休眠現象は、50年前にイギリスの科学者 Hinton により初めて報告されたが、その後この現象を詳しく解析した者はいない。このユスリカの生息場所が治安の安定しないナイジェリアで、採集が困難なこと、加えて室内飼育技術の確立が容易でないことがこの現象の研究を遠ざけてきたものと推察される。
  4. 我々は、最近これらの問題点を解決し、ネムリユスリカの室内継代飼育に成功した。 50年前には存在しなかった最新の生理・生化学あるいは分子生物学的手法を駆使して、このクリプトビオシスの機構解明を始めた。
  5. 特に、すでに分化した組織が、蘇生可能な状態で完全に乾燥脱水し、常温保存される過程の組織学および生理生化学的変化の解析は、基礎研究の観点から大変興味深い。またこの特異機能の解明は、細胞や組織の長期常温乾燥保存技術の開発に貢献する可能性がある。

【成果の内容・特徴】

  1. ネムリユスリカ幼虫をガラスプレパラート上の1滴の水の中に入れ、急激に乾燥させると、幼虫は水に戻してやっても蘇生しない。一方、幼虫を48時間以上かけてゆっくり乾燥させると100%の蘇生率を得ることができた。
  2. 後者のゆっくり乾燥させた幼虫の身体には、乾燥重量の20%に相当する大量のトレハロース*3)(糖)が含まれていた。一方、前者の急速に乾燥させた幼虫からはわずかなトレハロースしか検出されなかった。幼虫が乾燥休眠を成功させるための生理的な準備作業*4)(トレハロースの合成等)を終えるのに48時間を必要としたわけである。
  3. 1週間も雨が降らないと干上がってしまうような小さな水たまりに生息するネムリユスリカ幼虫は、冬眠動物が冬の到来を予測*5)するように、果たして雨や日照りを予測できるのか確認するため、次のような実験を行なった。幼虫の頭部と胸部の間を糸で縛り、頭部を除去する。開放血管系*6)をもつユスリカ幼虫は頭部を失っても数週間は生存できる。頭部除去幼虫(すなわち脳を持たない幼虫)を乾燥条件に入れ、完全に乾燥したことを確認した後(図4-B)、水に戻したところ幼虫は蘇生した(図4-C)。頭部除去幼虫は乾燥過程でトレハロースを合成・蓄積した(図5)。
  4. ネムリユスリカ幼虫の永久的休眠誘導に脳は関与しない。すなわち、日照りを予知できなくても、各細胞・組織自身が乾燥ストレスに応答し、自律的に乾燥休眠の準備をしていることがわかった。このことは、摘出したネムリユスリカ組織を蘇生可能な状態で常温乾燥保存することが可能なことを強く示唆した。

【研究の意義と今後の展開】

  1. 高等生物である昆虫の細胞・組織が自律的に乾燥ストレスに反応して、蘇生可能な状態で休眠できることがわかった。
  2. 今後は摘出した組織の長期常温乾燥保存技術の開発を進めていく。さらに脊椎動物の臓器にも応用が可能かも検討していく。

【実施プロジェクト】
   「宇宙環境利用に関する地上公募フェーズIB萌芽的研究」(H13-14)
   「文部科学省 独創的革新的技術開発研究提案公募」(H14)により実施した。

【問い合わせ先】
農業生物資源研究所 理事長岩渕雅樹
研究推進責任者:農業生物資源研究所 生体機能研究グループ長川崎建次郎
電話:029-838-6102
研究担当者:農業生物資源研究所 生体機能研究グループ 主任研究官奥田 隆
電話:029-838-6157
研究員渡邊匡彦
研究員黄川田隆洋
広報担当者:農業生物資源研究所 情報広報課長下川幸一
電話:029-838-7004

【用語解説】

  1. クリプトビオシス:生物は例えば冬などの悪環境での生存戦略をとる。ひとつは鳥など長距離移動が可能な動物は、暖かい場所に移動する(空間的逃避)。一方、多くの移動がむずかしい生き物たちは、自らの代謝を低下させ暖かい春が到来するのを待つ(時間的逃避)。この時間的逃避現象がいわゆる「休眠」である。休眠はさらに2種類に分類され、ひとつは(1)低代謝状態の広義の休眠、もうひとつは(2)無代謝状態の休眠でこれはクリプトビオシスと呼ばれる。無代謝状態なので、一旦この休眠に入ると好適環境を与えない限り永久的な眠りを続ける。そこで我々はこれを永久的休眠と日本語訳し使用している。乾燥状態に120年間置かれたコケの標本を水に入れたらワムシや線虫が蘇生した例は有名である。
  2. ユスリカ:ゲノム解析が進んでいるショウジョウバエやマラリア蚊と同じ仲間の双翅目昆虫。巨大な唾液線染色体を持つことで有名。水中生活を送る幼虫はアカムシとも呼ばれ、ヘモグロビンを持ち水中の溶存酸素が低い泥の中でも棲息が可能。
  3. トレハロース:非還元性二糖。昆虫の主要血糖。クリプトビオシスをする生物をはじめ優れた乾燥耐性を持つ生物が体内に多く蓄積する。他の糖に比べて高い生体成分保護機能を示す。
  4. ネムリユスリカの幼虫が乾燥休眠するための生理的な準備作業:我々の身体の成分の8割は水である。生命活動に水は不可欠であり、細胞が50%以上水を失うと死に至る。一方、ネムリユスリカ休眠幼虫は、ほぼ完全に脱水しても死なない。蘇生可能な状態で組織.細胞が乾燥する際、水に代わる生体成分(タンパク質、核酸など)の保護物質として糖の蓄積が不可欠なのである。
  5. 冬眠動物の環境変化の予測:冬眠動物は冬の到来を日長の変化等から、すでに秋の時点で予測し休眠の準備を始める。将来の悪環境到来の予知を含めた、一連の冬眠準備作業には脳・内分泌器官など中枢神経が関わっている。
  6. 開放血管系:昆虫はクチクラでできた外骨格を持ち、組織は直接血液の中に浮かんだ状態で存在する。よって血管の代わりに気管が体腔内に張り巡らされ、酸素が組織に供給される。よって昆虫は腹部の気門(気管の開口部)を塞がない限り、頭部を失っても呼吸が可能となり、しばらく生存を続ける。

参考資料1

和名:ネムリユスリカ
英名:Sleeping Chironomid
学名:Polypedilum vanderplanki

図1.ネムリユスリカの成虫:形態的には極普通のユスリカ

参考資料2

.図2.ネムリユスリカの生息場所:
アフリカの半乾燥地帯の岩盤の窪みにできた小さな水たまり

参考資料3

参考資料4

図4.ネムリユスリカ乾燥幼虫を水に戻した時の組成の様子
  A:水に戻して0,8,16,32,44分後の乾燥幼虫
  B:頭と胸の間を糸で縛り頭部除去後に乾燥させた幼虫
  C:水に戻して2日後の頭部切除乾燥幼虫

参考資料5

図5.ネムリユスリカ除脳幼虫の乾燥中のトレハロースの変化
  A:無傷の幼虫を乾燥
  B:頭部を除去した幼虫を乾燥
  C:頭胸部を除去した幼虫を乾燥
  D:頭部を除去した幼虫を水中に放置

【掲載新聞】
2003/04/24日刊工業新聞、日経産業新聞、茨城新聞、化学工業日報、日本農業新聞
2003/05/01日本工業新聞